
かつて「陰陽師」という映画にもなり、フィギュアスケートの羽生選手も競技でその映画の主題歌を使用したことで、さらに注目を浴びた「安倍晴明」。彼にまつわる話には不思議なものが非常に多く、知れば知るほど魅せられる人物です。そんな神秘的な安倍晴明が、カリスマ陰陽師と言われた理由とは?
安倍晴明とは
平安時代に活躍した陰陽師安倍晴明は、その誕生の地については大阪市阿倍野区であるという説と、奈良県桜井市であるという説が存在しています。
父が陰陽師であり、その父から陰陽道と天文道を学び、占いや天文学の才能にたけていたため、貴族社会でも認められ、宮廷の天文博士という高い地位に就いていました。そして自然災害や飢餓を未然に防ぐ予言をし、人々を救っていたとされています。
また大干ばつが襲っても、彼が拝めば雨が降るという奇跡も起こしたのだそうです。「今昔物語」や「宇治拾遺物語」の中でも、安倍晴明が儀式を行う神秘的な姿が描かれており、人の前世を占ったり、悪霊から人々を守ったとされています。
不思議な伝説
真偽のほどは定かではありませんが、安倍晴明には不思議な伝説がたくさん存在しています。
一節によれば、かつて安倍晴明の父親が、悪者に追われていた一匹の白狐の命を救ってやり、その帰り道に知り合った美しい女性とやがて結婚し、安倍晴明が誕生します。ある日、庭先の花があまりにも美しく、それに見とれてしまった母親が、自分の姿が狐に戻っていたのに気がつかず、それを安倍晴明に見られてしまい、その後母親は姿を消してしまいます。
そう、安倍晴明の母親は、父親が助けた白狐の化身だったのです。このように白狐と人間の間に生まれた子供であるがゆえに、彼が現世と異界を自由に行き来するパワーを兼ね備えていたと考えられているのです。
陰陽師として
若い頃からその才能を発揮していた安倍晴明は、960年に村上天皇が原因不明の病に倒れたときに、その原因が内裏の礎の下に埋められてしまった蛇と蛙の仕業であることを鶏の鳴き声から悟り、天皇の病気を癒したことから、昇殿を許されて陰陽頭にまで出世したのでした。
晴明は式神という、目に見えない霊を自由に操っていたとされ、見えない存在のものと会話をするその様子は、「今昔物語」の中でも紹介されています。しかしこれだけではなく、算術を基盤とする六壬式占いや天文学も用い、教養を兼ね備えた陰陽師として活躍していました。
呪術と二度の死
安倍晴明の力のすごさは、「宇治拾遺物語」でも次のように述べられています。
ある僧が晴明に「あなたは式神をお使いになり、たちまち人を殺すこともできるのですか?」と問いかけました。
晴明は無論否定しますが、そのとき蛙が数匹庭に現れたので、僧が再びそれを殺すようにと頼みます。しかたなく晴明は、庭の葉を摘み取り、呪文を唱えてその葉を蛙に投げつけました。すると葉が蛙の上に乗った瞬間、蛙はペシャンコになって死んでしまったのでした。
またある時、晴明と術比べをして、彼に負けたために弟子になった道満法師という人物に、晴明は妻を預けて修行に出かけます。しかし、留守中妻に道満と不倫をされ、それを知った晴明は、怒って大酒を飲んで、自分の首をかけて道満法師と喧嘩をしますが、負けたために切り殺されてしまいます。
それを知った晴明の師匠のひとりであった伯道という人物が、殺されて埋められてしまった安倍晴明の骨を掘り起こし、祈祷により蘇生させたとされています。そして蘇生した晴明は、道満法師と妻を切り殺しに行ったということです。その後安倍晴明は、85歳まで陰陽師として活躍を続けたのでした。
ゆかりの神社
安倍晴明ゆかりの神社の中でも、生誕の地とされているのが大阪市阿倍野区に存在する「安倍晴明神社」です。
また京都市右京区の嵯峨に彼のお墓が存在しています。このお墓とは別に、京都には1007年に一条天皇の命令により、安倍晴明の偉業を称えるために建てられた晴明神社も存在しています。
東京の葛飾区にある立石熊野神社は、平安時代中期に安倍晴明に勧請されて建造され、またかつて安倍晴明がマムシ退治の為に居住していた地に建てられたのが、名古屋晴明神社です。
まとめ
いかがだったでしょうか?
知れば知るほど不思議なことが多々ある安倍晴明ですが、そのパワーはかなり偉大であったようですね。
魔除け、厄除けにご利益があるという、ゆかりの神社にぜひ足を運んでみて、平安時代の陰陽師に思いをはせてみるのもよいかもしれません。
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