高野山は、和歌山県北部に所在し、「八葉の峰」と呼ばれる1000メートル級の山々に囲まれた、標高約800メートルの高地に開けた盆地です。平安時代のはじめに弘法大師によって開かれました。その地形は、まるで蓮の華が開いたようだといわれています。

殊に「奥之院(おくのいん)」は、現在も弘法大師が瞑想し続けているという信仰があり、四国88ヶ所霊場の巡拝を遂げた人が、満願報告に訪れる聖地ともなっています。
高野山・奥之院とはどのような所なのでしょうか。御朱印や見どころをご紹介します。
目次
高野山とは
約33万坪の広大な敷地は、かつて「一山境内地(いっさんけいだいち)」といわれ、高野山全体が「金剛峯寺(こんごうぶじ)」という一つのお寺でした。
現在では、主なエリアとして、弘法大師が最初に道場を開いた「壇上伽藍(だんじょうがらん)」と、大師が入定(にゅうじょう)した「奥之院」の二つの聖域、そして、高野山真言宗総本山としての宗務所がある「総本山金剛峯寺」とからなります。
その他、子院が117ヶ寺あり、そのうちの52ヶ寺は宿坊を兼ねています。東西約6キロ、南北約3キロにわたって、寺院や宿坊、商店、小学校から大学まで備える宗教都市を形成しています。
高野山の歴史
816年(弘仁7年) | 弘法大師(空海のおくりな)が嵯峨天皇から高野山の地を下賜されて、真言密教の道場として開きました。 |
819年(弘仁10年) | 弘法大師は、壇上伽藍の造営を始めましたが、大師が在世中に完成した堂宇はわずかでした。 |
835年(承和2年) 3月21日 |
弘法大師は62歳のとき、高野山奥之院で入定。その後、大師の甥で弟子となった真然(しんぜん)が約20年をかけて伽藍を整備しました。 |
994年(正暦5年) | 落雷による火災のために建物はほとんど焼失し、衰退しました。 |
1016年(長和5年) | この頃から、定誉(じょうよ)によって再建されました。1023年に藤原道長が、平安後期には、白河上皇、鳥羽上皇が参詣し、寺領も増え、最盛期には約2000の堂宇が建ち並びました。 |
1593年(文禄2年) | 豊臣秀吉が亡母の菩提をとむらうために青巌寺(現在の総本山金剛峯寺の前身)を建立しました。この頃、戦国大名が出資し、多くの子院が建てられました。 |
1643年(寛永20年) | 三代将軍徳川家光が、家康公と秀忠公を祀る徳川家霊台を建立しました。これに続いて、諸大名が子院、霊屋、墓碑、供養塔などを相次いで建立しました。 |
1869年(明治2年) | 青巌寺と興山寺が合併し、金剛峯寺と改称されました。 |
2004年(平成16年) | ユネスコ世界遺産に「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部として登録されました。 |
2015年(平成27年) | 高野山開創1200年を迎えました。 |
こちらは、高野山開創1200年記念のイメージキャラクター「こうやくん」のピンバッジです。
高野山開創にまつわる伝説

弘法大師は、2年間の唐(現在の中国)での留学から帰国するとき、明州の浜で、「伽藍建立の場所を示したまえ」と念じて、法具の三鈷杵(さんこしょ)を投げました。すると、雲に乗り空中を飛んで現在壇上伽藍が建っているあたりに落ちたのです。
大師が三鈷をさがして、大和の宇智郡に入ったとき、黒と白の犬を連れた漁師に会いました。大師はその犬に導かれて紀ノ川を渡り、険しい山中に入りました。すると、そこでその山の主だという一人の女性に出会います。
その女性に導かれてさらに山の中に進んでいくと、静かな大地があり、明州の浜から投げた三鈷杵が松の木にかかっているのを発見したのです。そして、この地こそ道場を開くのにふさわしい所だと感知したという伝説があります。
聖域「奥之院」とは

奥之院は、弘法大師が入定した所で、現在も大師が衆生を救うために瞑想を続けておられると信じられている信仰の聖域です。大師の御廟と拝殿にあたる燈籠堂(とうろうどう)があります。「御廟橋(ごびょうばし)」から奥は、写真等撮影禁止のエリアとなっています。
奥之院参道
「一の橋」から「中の橋」「御廟橋」までの約2キロの参道は、樹齢約700年の杉の大木が立ち並び、昼でも薄暗く、厳粛な雰囲気を醸し出しています。
その間には、武田信玄・勝頼、上杉謙信・景勝、伊達政宗、石田三成、明智光秀、豊臣家、織田信長、親鸞上人、法然上人などの墓碑や供養塔など、歴史教科書や映画、テレビドラマなどに登場するような人物の供養塔がずらりと並び、歴史好きにはたまらない参道です。
奥之院・汗かき地蔵
「中の橋」を渡るとすぐの所に「汗かき地蔵堂」があります。世の中の人々の苦しみを身代わりになって受けてくださるので、いつも汗をかいているそうです。有り難く、親しみがわきます。
奥之院・姿見の井戸
この井戸をのぞいて、自分の姿が映らなければ3年以内に死ぬという伝説があります。もし、映らなかったらと思うと、のぞくのがちょっと怖いですね。でも勇気を出してのぞいてみてください。
奥之院・水向け地蔵
「御廟橋」の手前に、地蔵菩薩や不動明王、観音菩薩などが並んでいます。御供所(ごくしょ)で水向塔婆を求め、地蔵尊に納めて、水をかけて先祖の冥福を祈ります。
奥之院・弘法大師伝説の玉川の魚
「御廟橋」の下を流れる川を玉川といいます。昔、この川で子どもたちが魚を獲り、串に刺して焼いていました。そのとき通りかかった弘法大師が子どもたちから魚を分けてもらいました。大師が串を抜き、魚を川へ放すと、魚が生き返って泳ぎだしたという伝説があります。以来この川の魚には串のあと(斑点)があるとのことです。

いつもながら素晴らしい記事を拝読し何度も読み返しました。
高野山厳粛な気持ちになりますね、私もお大師様の食事行列見ました。
かなり大規模な境内ですね、全部拝観してませんので、又参拝したいと思います。
御朱印も他のお寺で頂けるのですね。次は私もいただきたいです。
次もいろいろな旅記事を楽しみにしております。
ご訪問ありがとうございます。高野山は広大で、見どころもたくさんありますので、何度も訪れたくなりますね。
今回は、奥之院中心に紹介しましたが、金剛峯寺、壇上伽藍の他にも、霊宝館や徳川家霊台、苅萱堂、女人堂など気になるところがたくさんあります。御朱印をいただけるところもいろいろあるようです。ぜひまた季節を変えてご訪問ください。