名言

歴史を築いた女性たちの一歩踏み出せる【名言】

歴史を築いた女性,名言
時代が激動している今、偉人の名言からパワーをもらって開運に繋げて欲しいという思いで

現在、「明治の女子教育史散策」執筆中の元国語の教師ゆうこさんに、歴史を築いた女性たちの名言と名言の背景にある歴史を紹介してもらいます。

『新渡戸稲造の至言』共著。

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明治時代から昭和の戦前までは男性中心の社会でした。女性は適齢期になると他家に嫁ぎ、子供を産み育て、妻として母として家を守り、繁栄させていくのが女性の務めと言い聞かせられて育ちました。

そういう時代風潮の中で、何かちがうと感じ、ある時は世間の波に抗い、批判を浴びながらも、女性の地位向上や自立への道を目指し、女子教育や女性解放運動に取り組んだ女性たちがいます。

そんな女性たちの名言を紹介します。あなたも一歩踏み出せるヒントが得られるかもしれません。

津田梅子(つだうめこ)の名言

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「ヘレンにおいて私どもは文明の力教育の功の驚くべきことよりは、むしろ熱心の力の恐るべき事を学ぶべきであると思います。」
~津田塾大学の創立者~

これは、津田梅子がヘレン・ケラーについて語った話のまとめのことばです。津田梅子といえば、2024年から五千円札の肖像に登場することが決まっていますね。

津田塾大学の前身、女子英学塾を創立した教育者です。梅子は34歳の時、ヘレンに会いに行きました。

ヘレンは、生後19ケ月の時かかった熱病がもとで、盲・聾・唖の三重苦を背負いました。7歳から家庭教師アン・サリヴァンの教育を受け、厳しい訓練により克服し、19歳の時、難関のラドクリフ・カレッジ(現ハーバード大学)に合格しました。文学士の称号を得て卒業。

後に世界各地を訪ねて講演や著述を行い、障がい者の教育や福祉の発展に尽くした「奇跡の人」として知られています。日本にも3回来ています。

梅子は、明治時代のはじめ、満6歳11ケ月で、政府が派遣した官費留学生として、他の4人の少女たちとアメリカへ渡りました。11年後帰国しましたが、日本語をすっかり忘れてしまった梅子は、働く学校も経験を生かせる仕事もありませんでした。

数年後、華族女学校(現学習院女子中・高等科の前身)や女子高等師範学校(現お茶の水女子大学の前身)で英語を教えるようになります。

25歳の時、アメリカのブリンマー女子大学へ3年間の留学が叶い、大学で学ぶ楽しさ、素晴らしさを体験しました。その頃、日本には女子が学べる大学は一つもありませんでした。

自分も日本の女子に高等教育を授けたい、英語の教員を目指す人に検定試験に合格できるように指導したいという思いから、1900年9月、女子英学塾という小さな学校を開きました。

その2年前の6月、梅子は、アメリカのデンバーで開かれた万国婦人連合大会に出席しました。大会を終えて8月、マサチューセッツ州のレンサムにいるヘレン・ケラーに会いに行ったのです。

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18歳のヘレンに会い、2、3時間会話しました。ヘレンが梅子の唇に指をあてて話を聞きとり、ヘレンは口ごもった声で返事をします。時には、サリヴァンの通訳により互いにことばを通じ合いました。

ヘレンが指を使って会話が出来るようになるまでには、サリヴァンとヘレンとの壮絶な努力とバトルがありました。サリヴァンはヘレンに人形を渡して、ヘレンの手のひらに“doll”と指で書き、物にはそれを表すことばがあるということを教えようとしました。

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毎日毎日、帽子、茶碗、座る、立つなど、物や動作と指文字を根気よく繰り返しました。数週間後ついに、ヘレンの手に流れる水と、指文字の“water”がヘレンの頭で結びついたのです。

梅子は、ヘレンとサリヴァンに会った時、ヘレンに奇跡を起こしたのは、サリヴァンの熱心の力と誠意によるものだと思いました。もちろんヘレンの探求心旺盛な天性も幸いしたでしょう。梅子はそこに教育の原点を見たのです。女子英学塾開校へ一歩踏み出す勇気を得ました。

梅子は女子英学塾の開校式の式辞の中で、「真の教育には物質上の設備以上に、もっと大切なことがあると思います。それは一口に申せば、教師の資格と熱心とそれに学生の研究心とであります。」と述べています。このことば通り、梅子は一人ひとりに適したやり方で熱心と誠意をもって教えました。女子英学塾は、女子に英語の高等教育を授けた日本初の学校です。

吉岡弥生(よしおかやよい)の名言

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「せっかくここまで築きあげてきた日本の女医の伝統は、あくまで守っていかねばならぬという使命感が、私を立ちあがらせました。」
~東京女子医科大学創立者~

これは、吉岡弥生が、現在の東京女子医科大学の前身、東京女医学校を開校する決心をした時のことばです。弥生は医術開業試験に合格した27番目の女医として、神田飯田町で至誠医院を経営していました。

明治・大正時代、官公立の医学校は女子を受け入れていませんでした。1900年の秋、かつて弥生自身も学び、唯一女子が学べる医育機関であった私立の済生学舎(さいせいがくしゃ)が女子の入学を拒絶し、翌年3月には在学中の女子まで追い出してしまいました。

済生学舎には「芙蓉団(ふようだん)」という不良グループがあり、男女交際を求めて女子学生を追い回したり、他校の男子学生と乱闘事件を起こしたりしていました。その不良グループを一掃せずに、女子学生を追い出したのです。

弥生自身も在学中男子からさまざまな嫌がらせを受けました。「女子が安心して学べる学校を作らなければ女医の命脈が絶たれてしまう。女性の社会的地位を向上させるためには、経済的に自立できるようにしなければならない。医学医術は女性に適した職業である。なんとしても守らなくては。」という思いがつのりました。

そこで、弥生は夫の吉岡荒太と相談し、至誠医院の一室で東京女医学校を始めたのです。1900年12月のことでした。集まったのはわずか4名。六畳間に粗末な机と椅子を並べただけでした。弥生が生理学と解剖学を教え、荒太が物理学と化学を教え、医術開業試験合格を目指させました。翌年4月には済生学舎を追い出された女子学生が入学し、20名ほどになりました。すると六畳一室では収容しきれなくなり、市ヶ谷仲之町に移転しました。

その後現在地の河田町へ移転して軌道に乗るまでにはまだまだいくつもの試練が待ち受けていました。しかし、弥生は「女医の伝統を守らなければ」の一念で、経営の危機を乗り越えていきます。

夫妻は私有財産をすべて寄付して財団を設立し、1912年3月東京女子医学専門学校に昇格させました。当時、我が国唯一の女子高等医育機関でした。創立者弥生の「女子が安心して学べる学校」の精神を大事にして、現在も日本で唯一の女子医科大学を貫いています。

平塚らいてう(ひらつからいちょう)の名言

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「元始、女性は太陽であった。真正の人であった。 今、女性は月である。他に依って生き、他の光に依って輝く、病人のような蒼白い顔の月である。」

「隠れたる我が太陽を、潜める天才を発現せよ、」

~評論家、女性解放運動家~

これは、1911年9月、平塚らいてうら5人の女性によって発刊された女性のための文芸誌『青鞜(せいとう)』の「元始、女性は太陽であった。――青鞜発刊に際して――」の一部です。

らいてうによって書かれたこの力強い文章が、当時良妻賢母であることを求められ、「家」に縛り付けられ、窮屈に感じていた女性たちを目覚めさせました。ジャーナリズムは『青鞜』に関わる女性たちを「新しい女」として取り上げました。

らいてうの長文「元始、女性は太陽であった。」の主旨は、「誰でも自分自身の中に偉大な潜在能力を持っている。天から与えられた才能を持っている。長い封建制度によって、閉じ込められてきた女性の内にある天才を、今や発揮すべきである。それが自由への解放である。女性たちを救うのは女性たち自身がその内にある秘密を暴露し、自ら天啓であろうとすることである。そうすれば、自ら輝く元始の太陽の姿を取り戻せるのである。」ということでしょう。

しかし、やがてさまざまなハプニングが重なり、新聞や雑誌はあることないことおもしろおかしく書きたてました。『青鞜』に関わる「いわゆる新しい女」はふしだらな女であるなどとレッテルを貼られるようになっていきました。

平塚らいてう(本名平塚明〈はる〉)は、日本女子大学校(現日本女子大学)という当時まだ数少ない高等教育を受け、卒業後も英語や漢文を学びながら、宗教、倫理、哲学、文学などの書物を濫読し、座禅で精神修養もしました。

妻子ある作家と心中未遂事件を起こし、日本女子大学校の同窓会から除名処分を受けました。5歳年下の画家志望の男性と事実上の結婚をしても、当時の家父長制度下の婚姻は納得いかないとして法律上の結婚の形をとりませんでした。

そんならいてうを不道徳だと世間は厳しく批判しました。当時、恋愛結婚は野合(やごう)として卑しむ人も多かったのです。しかし、らいてうは、どんなに世間から非難を受けようとも、あまり気にかけず、常に自分の内側からほとばしり出てくる「天才」に従って執筆し、行動したのです。

1900年に治安警察法が出来てから、女性は政党に入ることも、政談演説をすることも、聴くことさえ許されませんでした。らいてうは、1919年、市川房枝(後、参議院議員)らと日本初の婦人団体である「新婦人協会」を設立し、母性保護運動や婦人参政権を求めて社会活動を始めます。治安警察法第五条修正の請願書を提出し、1922年、女性が政事に参加できるようになりました。第二次世界大戦後は、婦人運動とともに、反戦・平和運動のリーダー的存在として活動しました。

「すべての女性がその内に持っているものを、勇気をもって発現せよ」と、眠れる女性たちを覚醒させ、女性解放運動のきっかけになったのです。

まとめ

津田梅子、吉岡弥生、平塚らいてうたちが生きた時代から比べれば、現在、女性は自由に生きられるようになりました。しかし、なお女性たちが置かれている境遇は改善されるべき点が多々あります。

「熱心の力」「女医を絶やしてはいけない」「女性よ、自ら輝く太陽を取り戻せ」などの、歴史に確かな足跡を残した女性たちのことばを今一度かみしめて、あなたも一歩踏み出してみましょう。

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ABOUT ME
Written by ゆうこ
卯年、山羊座。元国語教師。趣味は、温泉旅行や食べること。百人一首競技かるたは選手&読手A級。お寺や神社に立つと、幾度もの興亡が繰り返され、再建・再生され、長年月維持し、受け継いできた無数の無名の人々がいたことを思わずにいられません。そういう人々の思いを少しでも伝えられたらと思っています。 共著書:『新渡戸稲造の至言』(新渡戸基金発行)『花ひらく女学校』(女子教育史散策 明治後期編)

POSTED COMMENT

  1. きりん より:

    津田梅子さんと石井筆子さんの関係あることは少し存じていましたが、詳しく教えていただきありがとうございました。最近の朝ドラで各界の女性先駆者取り上げていますが、もっと色々な記事を書いてっ下さい、ありがとうございました。

  2. きりん より:

    明治維新後も当時の女性は鹿鳴館の華でしたが、それにしても差別に対しご苦労されたでしょうね、現在も差別がありますが良くなってきていますね。ヘレンケラーについてよくわかりませんがサリバン先生を考えると、日本にも石井筆子さんを思います。滝野川学園を見学し知的障碍者に対する教育を考えさせられました。それぞれの教育先駆者に敬意を表します。ありがとうございました。

    • Written by より:

      ご訪問ありがとうございます。
      滝乃川学園を見学されたことがあるのですね。創立者の石井亮一さん、筆子さんご夫妻は知的障碍児教育に生涯を捧げられてとても尊い方々ですね。石井さんご夫妻と津田梅子さんとの関わりも深いものがあります。

      梅子さんがヘレン・ケラーに会った明治31年のデンバーで開かれた「万国婦人連合会」には、筆子(当時は渡邊筆子)さんも出席しています。二人は華族女学校の同僚で、梅子さんは英語を教え、筆子さんはフランス語を教えていました。その二人が日本の代表として大会に出席したのです。着物姿の美しい二人はとても評判だったようです。その後、シカゴで少し休養して、別行動しましたので、筆子さんはヘレンには会っていないかもしれません。しかし、この期間に、アメリカ聖公会総会に梅子さん、まだ結婚前の石井亮一さん、筆子さんが出席しています。石井夫妻が結婚するのはその5年後の明治36年で、梅子さんも参列しています。その頃からお二人は結ばれる運命だったのですね。

      ちなみに亮一さんは、明治29年に知的障碍児教育の調査研究でアメリカを訪れた時、ヘレンに会っています。梅子さんが女子英学塾を開設して、明治39年に麹町五番町に移転しますが、その場所は、筆子さんが運営していた静修女学校の跡地でした。英国大使館の裏にあり、梅子さんはここがとてもお気に入りでした。こんなふうに梅子さんと筆子さんは深い関わりがありました。本当に、学校や学園創立者の熱意に敬服いたします。

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