びわ湖の南西長等山(ながらさん)の中腹に広大な敷地を持つ三井寺は、西国三十三観音霊場第14番札所。古くから観音信仰のお寺として多くの人々の信仰を集めてきました。また、江戸時代の浮世絵師歌川広重の「近江八景」に描かれた「三井の晩鐘」でも知られています。
「山門寺門の抗争」などで何度も焼き討ちに遭いながらも、10点の国宝、40点以上の重要文化財を護り、大寺院として発展してきました。そんなたくましい三井寺の見どころや御朱印を紹介しましょう。
目次
目次
三井寺とは
寺号:園城寺(おんじょうじ)
通称:三井寺(みいでら)
山号:長等山(ながらさん)
宗派:天台寺門宗(総本山)
本尊:
金堂 弥勒菩薩(みろくぼさつ)
観音堂 如意輪観世音菩薩(にょいりんかんぜおんぼさつ)
開基:大友与多王(おおとものよたのおおきみ)
中興:智証大師円珍(ちしょうだいしえんちん)

大和時代667年、天智天皇(てんじてんのう)は、近江大津に都を遷しました。672年、天智天皇が亡くなると、皇位継承をめぐって、天智天皇の子大友皇子(おおとものおうじ・弘文天皇)と、天智天皇の弟大海人皇子(おおあまのおうじ・後の天武天皇)との間で壬申の乱が起こりました。大友皇子は戦いに敗れ、25歳の若さで亡くなります。
その子大友与多王は父の霊を弔うために自分の「田園城邑(でんえんじょうゆう)」を寄進して寺を創建しました。その心根に感じて、686年、天武天皇が「園城(おんじょう)」という寺号を与えたのが始まりとされています。
以下通称の三井寺で紹介していきます。通称の由来については後述の「閼伽井屋(あかいや)」をご参照ください。
平安時代の859~877年ごろ、唐(現中国)留学から帰国した智証大師円珍によって再興され、東大寺・興福寺・延暦寺とともに「本朝四箇大寺(ほんちょうしかたいじ)」の一つになりました。868年、円珍は延暦寺の最高地位である第5代天台座主(ざす)に就き、三井寺を賜りました。
しかし、円珍の死後、円珍門流と慈覚大師円仁門流の対立が激しくなり、993年、円珍門下が比叡山を下りて三井寺に入りました。このときから延暦寺を「山門」、三井寺を「寺門」と称して、天台宗は二分され、長く「山門寺門の抗争」がくりかえされることになります。三井寺は、「山門」宗徒により、大規模のもの10回、小規模のものまで含めると50回にのぼる焼き討ちに遭いました。
鎌倉時代1285年の時点では、中院74院、北院124院、南院140院もの子院が存在する大寺院でした。1571年、織田信長は比叡山を焼き討ちしたとき三井寺に本陣を置きました。1595年、天下を取った豊臣秀吉の怒りにふれ、三井寺は寺領を没収され、廃寺を命じられます。このとき大半の仏像や宝物は他の寺院に移されました。比叡山に移された金堂は、今も延暦寺西塔釈迦堂として現存しています。1598年、秀吉は亡くなる直前に三井寺の再興を許可しました。
このように時代に翻弄され、度重なる苦難を乗り越えてきたお寺なのです。明治維新後、北院の大半は軍用地となり、新羅善神堂と法明院とを残し、ほとんど廃絶しました。金堂を中心とする中院と、観音堂を中心とする南院について紹介します。
三井寺見どころ【中院のエリア】
大門(仁王門) 重要文化財
室町時代1452年の建立と推定されます。入母屋造(いりもやづくり)、檜皮葺(ひわだぶき)の楼門。もと近江の常楽寺にあった門で、豊臣秀吉によって伏見に移されたものを、1601年、徳川家康によって三井寺に寄進されました。
釈迦堂(食堂) 重要文化財
大門をくぐってすぐ右側にあります。入母屋造、檜皮葺。本尊は釈迦如来像。天正(1573~1593)年間造営の御所清涼殿を下賜されて移築したものと伝えられています。こちらで「釈迦如来」の御朱印がいただけます。
金堂(本堂) 国宝
入母屋造、檜皮葺。1599年、豊臣秀吉の正室高台院が寄進しました。本尊の弥勒菩薩は、1300年余り前、三井寺が創建されたときに天武天皇から賜ったと伝えられていますが、絶対秘仏のため、本尊を拝んだ人はだれもいません。
寺伝によりますと、三寸二分(10㎝弱)の像で、中国から百済(くだら)、日本へと伝わり、天智天皇が崇拝されたそうです。常に光を放ち、全身があたたかく「生けるがごとし」の霊仏と伝えられています。
金堂内あるいは近くの売店で「弥勒仏」の御朱印がいただけます。
三井の晩鐘(ばんしょう) 重要文化財
金堂の南東にあります。桃山時代1602年、弁慶の引き摺り鐘(後述)の跡継ぎとして鋳造されました。総高208㎝、口径124.8㎝、銅鋳造。江戸時代末期の浮世絵師歌川広重(安藤広重)が描いた近江八景の一つ「三井の晩鐘」として親しまれています。
この鐘は音色が優れており、「声の三井寺」「形の平等院」「銘の神護寺」として、「日本三名鐘」に数えられています。音階の「ラ」より少し低い音だそうです。環境庁の「残したい日本の音風景100選」に選ばれました。
乳(鐘のまわりについているイボのような突起)の数が全部合わせると百八個となり、百八煩悩(ぼんのう)にちなんだ乳を持つ梵鐘の在銘最古遺品です。
ひと撞き冥加料300円で撞くことができます。
閼伽井屋(あかいや)三井の霊泉 重要文化財
1600年、金堂の西側に高台院によって建立されました。
この中に天智・天武・持統の三天皇の産湯に使われたという霊泉が湧き出しています。このことから「御井の寺」と呼ばれていたものが、いつしか「三井寺」となりました。古来、閼伽水として金堂のご本尊に供えられてきました。
この霊泉に九頭一身の龍神が住んでいると伝えられています。閼伽井屋の正面上部に左甚五郎作と伝えられる龍が彫られています。
弁慶の引き摺り鐘(霊鐘堂内)重要文化財
閼伽井屋の右手、霊鐘堂内に安置されています。三井寺の初代梵鐘で、総高199㎝、口径123.2㎝、重さ2.25t、銅鋳造。奈良時代の作と伝えられ、この鐘にはさまざまな伝説があります。
10世紀前半、藤原秀郷(ふじわらのひでさと)が三上山のムカデ退治のお礼に琵琶湖の龍神からもらった鐘を三井寺に寄進したという伝説があります。
そして、比叡山と三井寺との争いのとき、比叡山の僧兵だった弁慶が鐘を奪って、比叡山へ引き摺り上げて撞いてみると、「イノー、イノー」と響きました。「イノー」は関西の言葉で「帰ろう」という意味です。弁慶は、そんなに三井寺に帰りたいのかと怒って、鐘を谷底に投げ捨ててしまったのです。鐘に残っている傷あとや破目などはこれらの時のものだと伝えられています。
また、この鐘は寺によくないことが起こる前触れに、汗をかいたり、撞いても鳴らなかったりなどの不思議な現象が起こり、良いことがあるときは自然に鳴るそうです。
唐院(大師堂)重要文化財
中興の祖智証大師円珍の御廟所で、893年の創建。重要文化財の灌頂堂・三重塔、県指定文化財の長日護摩堂などがあります。大師堂の中央の厨子に、国宝の木造智証大師坐像2体(中尊大師・御骨大師)が安置されています。
また、高野山明王院の「赤不動」、京都青蓮院の「青不動」とともに日本三不動の一つ、「黄不動」と呼ばれる「絹本著色不動明王像」(国宝)が安置されています。これは円珍が洞窟で修行中に金色の不動明王を感得したのを描きとめたものといわれています。
唐院への参道は、静かで厳かな空気がただよっており、足を踏み入れるのをためらってしまいました。
