現在、「明治の女子教育史散策」執筆中の元国語教師ゆうこさんに、『三浦環(みうらたまき)』さんの名言と、名言の背景にある半生やおすすめ本を紹介してもらいます。
『新渡戸稲造の至言』共著。
* … * … * … * …* … * …
目次
目次
三浦 環(みうらたまき)
~オペラ歌手、東京音楽学校(現東京芸術大学音楽学部)助教授
世界で花開いた日本人初のオペラ歌手三浦環のピンチをチャンスに変える名言
「私は東京で音楽をやりたい。私が音楽に精進して西洋で認められれば、日本の文化を高め、世界の人々を幸福にすることができるかもしれない。」
三浦環は、オペラ『マダム・バタフライ』の「蝶々さん」がその代名詞のようになりました。環は、東京音楽学校に入学する直前に、満16歳で父のすすめる軍医で12歳年上の藤井善一と結婚しました。それが音楽学校に進学するための条件でした。しかし、学校は未婚者でなければなりませんでしたので、内々の祝言をあげました。
環は4年間特待生で、卒業して研究科に進み授業補助として声楽を教えました。その頃には夫も東京勤務になり家庭を持ち、藤井環として家でも弟子を取って4、50人教えていました。
しかし、やがて夫が仙台転勤となり、環も一緒に仙台に来て世話女房になってくれることを望みました。その時に環が言ったのがこの言葉です。夫に一人で仙台へ行ってくれるように頼みました。
すると夫は『妻と芸術家の立場は両立しない。お前が、こんなに有名になるとは思わなかった。幸い子供もいないから別れよう。』と言いました。さすがに別れ話が出た時は環も悲しく泣き崩れました。夫は環を可愛がってくれ、環も夫を愛していました。音楽を捨てるか捨てないかだけの問題でしたが、ついに1907年離婚しました。夫は一人仙台へ赴任していきました。
環は同年6月助教授となり音楽活動を続けます。もしこの時、環が音楽を捨て夫に付いて仙台へ行っていたら、世界のオペラ歌手三浦環は生まれなかったかもしれません。ピンチをチャンスに変えた名言です。
三浦環の生涯
・芸は身を助ける!
1884年2月22日、現在の東京都中央区で、日本初の公証人の父柴田猛甫(たけとし)と母登波(とわ)の娘として誕生しました。父は芸事が好きで、環に3歳のころから日本舞踊、6歳のころから長唄と琴を習わせました。踊り、長唄、琴の稽古で身に着けた素養が、後に『お蝶夫人』の舞台に役立ちました。
・音楽の先生にすすめられて
1897年東京女学館に入学しました。派手好みで芸事が好きな父はしょっちゅう女性問題で母を泣かせていました。
環が2年生になった9月、東京音楽学校を卒業した新任の杉浦チカ先生が着任しました。杉浦先生から『柴田さんはなんて綺麗な声でしょう。音程もしっかりしている。生まれつき音楽の才能を身につけています。上野の音楽学校に入って勉強なされば、きっと日本で一流の音楽家になれます。』と強くすすめられました。環はその時初めて音楽家になる決心をし、父と離縁になった母を養って幸福にしてあげようと思いました。
しかし、父は『女は女学校を出ればお嫁にいくもの。琴や長唄などの芸事はお嫁入りの資格として習うものだ。音楽家などは西洋の芸者じゃないか。私は自分の娘を芸者にすることなど大反対だ。』と許してくれません。
そんな父を杉浦先生が説得してくれました。『環さんは音楽家としての天分を持っています。この天分をいかさないことは日本の文化の損失です。』と。それなら自分が選ぶ婿と結婚するなら許してやろうということになり、入学直前に父のすすめる藤井善一と内祝言を済ませたのでした。
・発声は自分で工夫
ピアノは「荒城の月」や「箱根八里」などの作曲で有名な滝廉太郎に、声楽は文部省留学生第1号の幸田延や、ヴァイオリニストのアウグスト・ユンケルに学びました。しかし、幸田もユンケルも声楽の専門家ではなかったため、発声法は自分で工夫し、声帯を無理しない方法を会得しました。これによっていつまでも美しい声で歌えたのです。
環は本科2年生の時、日本人の手による初めてのオペラ『オルフォイス』で主役に抜てきされるなどすでに頭角を現していました。
・雨夜のスキャンダル
別れた前夫藤井善一の誘いで雨の夜に靖国神社で会い、富士見町のお茶屋で一夕を過ごしたことが、環をつけねらっていた新聞記者千葉秀甫に、人違いされて不倫事件として報道されてしまいました。これが元で、環は1909年9月、足掛け3年勤めた東京音楽学校助教授を辞任しました。
・再婚
「雨夜のスキャンダル」で人違いされた三浦政太郎と再婚します。政太郎は環の遠縁にあたり、学生時代から環に恋焦がれていました。環の音楽家としての天分を認め、芸術家として活動を続けていくことに理解を示してくれたのです。
政太郎は東京帝国大学(現東京大学)医学部を卒業し、三浦謹之助博士の研究室で助手を務め、将来を期待されていました。後、1924年ビタミンCを発見して医学博士となります。しかし、世間を騒がせた環と結婚したことで政太郎は破門されてしまいました。
・ドイツ留学からロンドンの舞台に出演!
環と政太郎はドイツに留学することにし、1914年7月ベルリンに到着しました。環はドイツの国宝的プリマドンナリリー・レーマンに学ぶため、夫はカイゼル・インスティチュートに入り医学研究を続けるためでした。しかし、1ケ月後第一次世界大戦の勃発で、命からがらロンドンに逃げることになります。
そのロンドンで環に思わぬチャンスがめぐってきたのです。世界的な指揮者ヘンリ・ウッド卿のテストを受けるために訪ねた折、偶然環の歌声を聞いていた婦人の依頼で、同年の10月ロンドンのアルバート・ホールで歌うことになりました。その婦人は後に英国首相になるウィンストン・チャーチルの母親でした。
国王・女王はじめ、大臣や各国大使公使が貴賓席に並び、聴衆23,000人、オーケストラ300人、コーラス1,000人、指揮はヘンリ・ウッド卿という大舞台で、環は振袖に日本髪を結い、歌劇『リゴレット』の一節と日本の「さくらさくら」「ほたる」を歌い大喝采を浴びたのです。
そして、翌年5月、ロンドン・オペラハウスで、環自身まだ聞いたことも見たこともない『お蝶夫人』を歌うことになりました。『ヨーロッパ風の先入観で汚されていないからこそ独自の工夫ができる』と言われ、環は自分で工夫を凝らして歌いました。この時子供の頃に習った日舞や長唄、琴の素養が生きて大成功を収め、翌朝目が覚めると大芸術家となっていました。
・オペラ『マダム・バタフライ』(邦訳名『蝶々夫人』)とは
長崎を舞台に、没落した士族の娘で芸者に身を落とした15歳の「蝶々さん」とアメリカの海軍士官ピンカートンとの恋愛悲劇です。イタリア人のジャコモ・プッチーニによってオペラ化されました。現在でも『椿姫』『カルメン』と並んで人気オペラの一つです。日本語の正式名称は『蝶々夫人』ですが、環は『お蝶夫人』という言い方を好みました。
・ニューヨーク・メトロポリタンで活躍
ロンドン・オペラハウスの舞台の評判によってさらに大きなチャンスが訪れました。環は1916年夫とともに米国に渡り、1930年まで15年間アメリカを中心に活躍します。
1918年5月には日本人で初めて、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場に迎えられ、世界一のテナー、エンリコ・カルーゾーと共演して『お蝶夫人』を歌いました。
・プッチーニが絶賛!
1920年環の『お蝶夫人』ローマ公演を観たプッチーニから、ローマ郊外の山荘へ招待されました。その時プッチーニから『あなたは、第一幕では15歳の初々しい蝶々さんを、第二幕の第一場では母の愛と夫の帰りを待つ若き妻の愛情を、第二場では子供と別れて自殺する日本婦人の貞淑の悲劇を見事に表現しました。あなたは世界にたった一人しかいない、最も理想的な蝶々さんです。』と讃えられたのです。
1935年にイタリアのパレルモで『お蝶夫人』出演2,000回を達成します。環の公演は南北アメリカ、イタリア、スペイン、ギリシャ、エジプト、ドイツ、オーストリア、ロシアなどほとんど全世界に渡りました。
・日本での活躍
1922年に一時帰国しました。大歓迎を受け、約半年間日本全国で『お蝶夫人』を含む独唱会を開き絶賛されました。レコードも大ヒットし8万枚を売り上げました。
1935年11月に永住を決意して帰国しました。翌年6月26・27日、東京の歌舞伎座でイタリア語による『お蝶夫人』公演で2001回目の出演をしました。
戦争中の1945年7月13~17日に開催された「音楽五十年史」の大会に出演したのを初め、終戦から4ケ月後の12月1日と7日にシューベルト作曲『冬の旅』全24曲の独唱会、1946年3月21日にシューベルトの歌曲集『美しき水車小屋の乙女』全20曲の独唱会を、いずれも日比谷公会堂で行いました。戦争で打ちひしがれた人々を慰めるためでした。
特に3月の独唱会の時は、膀胱がんを患い一人では歩けない状態でした。以前のふくよかな体つきとは別人のようにやせ衰えて、ドクターストップがかかりましたが、『一度独唱会をしますと世間に約束した以上、約束は果たさなければいけない。音楽家として独唱会をして死ぬのは本望です。』と、舞台に立ちました。
弟子に介抱されながらステージに出て、グランドピアノにもたれかかりながら、それでもピアノが鳴り出すとしゃきっとして歌い出しました。声はときどきかすれ、フォルテがききません。それでも全20曲を歌い、語りました。環は独唱会で歌の合間に思いつくままに話をします。その飾らない自然体の語りは笑いあり涙ありで聴衆をひきつけました。
この時は『上野の音楽学校で創立30年か40年かのお祝いの時、音楽に功労のあった者を表彰しました。しかし、20年間日本の生んだプリマドンナとして欧米でオペラをやった私にはなんにもご褒美をくださらない。これからの日本はもっと大きく眼を見開いて、世界の平和、世界の文化のためにつくさねばなりません。』と涙ながらに語りました。最後に歌った「ホーム・スイート・ホーム」は涙にくれて、聴衆も泣きました。それが環がステージで歌った最後でした。
4月にはNHKからの依頼で、3回の録音を行いました。9日の『お蝶夫人』の録音の時にはメトロポリタンで歌った時の振袖を着ました。録音の間にスタジオの片隅に用意された屏風の陰で用を足さねばなりませんでした。フォルテを出すと尿意を催すのです。それでも最後までプリマドンナとして歌い続けることが自分の使命だと考えていました。
亡くなる二日前に昏睡状態の中で、練習を始めていたドビュッシーの『バルコン』をフランス語で口ずさんでいたといいます。恐るべき芸術家魂の持主でした。1946年5月26日死亡。
告別式は5月28日に大東学園の講堂で行われましたが、日本政府からは花輪の一つも届きませんでした。6月7日全楽団をあげての音楽葬が日比谷公会堂で盛大に行われました。
・お墓は山中湖湖畔の寿徳寺に
遺言により、1944年3月末に母とともに疎開した山梨県山中湖畔の、富士山の見える寿徳寺の母の眠る墓に葬られました。墓碑に、「うたひめはつよき愛国心持たざれば真の芸術家となり得まじ」と、直筆の言葉が刻まれています。
・環の銅像
環の20年に及ぶ活動は、海外では一流プリマドンナとして、特に『お蝶夫人』の世界三大オペラ歌手の一人として尊敬と人気を集めました。しかし、東京音楽学校からも日本政府からも何の栄誉も与えられませんでした。これが環の無念でした。
1922年の一時帰国の時に伴奏者として伴ってきたイタリア人のアール・フランケッティとの仲や、夫政太郎の急死の知らせをハワイ・ホノルルで受けたものの、公演の契約があるからと帰国しなかったことなど、再三世間を騒がせました。そうした自由奔放で歌一筋の情熱的な環の行動が原因でしょうか。
しかし1963年、「蝶々さん」に扮した環の銅像が長崎市のグラバー園に建立されました。プッチーニの銅像(1996年に建立)と隣り合わせに長崎港を見下ろしています。