目次
目次
乃木希典(のぎまれすけ)とは
江戸生まれの泣き虫少年
江戸時代末期1849年12月25日、長州(現山口県)藩の支藩である長府藩士乃木希次と壽子(ひさこ)の三男として、江戸の長府藩上屋敷(現東京都港区六本木)で生まれました。幼名は無人(なきと)。長兄と次兄は夭折したため、無人は跡継ぎでしたが、体が弱く臆病で、友人に泣かされ「泣き人(なきと)」とあだ名をつけられる始末。そのため父は厳しく育てました。
1858年12月、藩の騒動に巻き込まれ閉門・減俸処分となった父に同行し、長府(現山口県下関市)へ下りました。
1864年4月満14歳の時、武士よりも学者を望み、父に無断で萩に向かい、親戚の兵学者玉木文之進に師事しました。玉木は松下村塾の創始者で、吉田松陰(1859年11月刑死)の叔父であり、松陰の師でもありました。藩校明倫館の文学寮に通学し、一刀流剣術も学び始めます。
1865年5月、幕府による第二次長州征討が開始されると、長府に呼び戻され長州藩報告隊に入隊し、幕府軍と戦いました。従兄弟で報告隊の隊長であった御堀耕助(みほりこうすけ)から“学者となるか軍人となるか意思を明確にせよ。”と迫られて、軍人の道を選ぶことになりました。
陸軍少佐に抜擢され、希典(まれすけ)と改める
1872(明治5)年1月、御堀耕助を通して紹介された陸軍の実力者黒田清隆の推挙により、いきなり陸軍少佐に抜擢され、名前を希典と改めました。
1875年12月、熊本鎮台歩兵第14連隊長心得として小倉(現福岡県北九州市)へ赴任します。1877年2月、西南戦争が起こり、歩兵200余人を率いて熊本城入城をめざした希典は、植木町付近で遭遇した薩軍と激戦となり、連隊旗を奪われてしまいます。
天皇から拝受した連隊旗を奪われた自責の念で何度も自殺を図ろうとしました。これ以後希典は死に場所を求めて生きる日々となります。
結婚
1878年1月、歩兵第一連隊長に抜擢され東京に戻りましたが、毎日柳橋や両国、築地などの料亭へ通いつめる放蕩生活を送っていました。希典29歳の10月、母親のすすめで旧薩摩藩医湯地(ゆち)家の末娘で満19歳のお七と結婚することになりました。
しかし、希典は婚礼当日6時間近くも遅刻した上に、盃事(さかずきごと)が始まると酔った声をはりあげて“我が家は武人の家である。いかなる苦労も厭わない覚悟がないのなら、その盃を置いてお帰りなさい。”というような厳しい言葉を放ちました。
お七がゆっくりとうなずき盃事が完了すると、希典はひっくりかえって寝てしまうという次第でした。
お七は家風に合った名前にと「静子」と改名させられ、放蕩ぶりは結婚後も改善されませんでした。1879年8月に長男勝典が、1881年12月に次男保典が誕生しました。その後長女恒子、三男直典が生まれますが二人とも夭折します。
ドイツ留学後に変身
1887年1月から1888年6月まで政府命令によりドイツへ留学し、ドイツ陸軍の全貌について学びました。帰国後陸軍大臣に提出した復命書に、軍人は徳義を本文とすべきこと、軍服着用など軍人教育の重要性について記しました。
この後から乃木の生活は一転します。料亭通いを絶ち、芸妓が出る宴会には出席せず、平素は稗を食べ、来客時には蕎麦をご馳走として振る舞い、生活を質素にしました。そして外でも家でも寝る時も軍服を着用しました。復命書に記したことを自ら実行し、理想の軍人になることに生きる意味を見出していきます。
日露戦争の勲功
1904(明治37)年2月、日露戦争の開戦に伴い第3軍司令官に任命され、6月戦地に赴き、大将に昇進しました。日本を発つ直前に長男勝典戦死の電報が東京から届きました。周囲には告げず、妻には“自分と、保典と三人の棺がそろうまで勝典の葬儀は出すな”と書き送りました。
乃木大将率いる第3軍は旅順(現中国遼東半島の西南端にある大連市の一地区)要塞の攻略を命じられました。迫りくるロシアのバルチック艦隊との海戦に備えて、旅順港内のロシア艦隊を撃沈したい海軍からの要請でした。旅順は1898年ロシアが租借し、厚いコンクリートで周囲を固め、堅固な要塞を築いていました。
8月、10月、11月の3回の総攻撃は凄まじいもので、機関砲を配備した要塞に向かって“肉弾”の戦いでした。正面を攻撃する方法では要塞を占領できず、西方の203高地占領作戦に切り替え、12月に入ってようやく要塞占領に成功しました。
1905年1月1日、ロシア軍司令官アナトーリィ・ステッセルが降伏書を送り、翌日戦闘が停止され、旅順要塞は陥落し、日本軍の勝利につながりました。旅順攻囲戦で日本軍は約6万人の死傷者を出しました。
その間、死傷者が増えるばかりでなかなか要塞を陥落させられない乃木司令官に対する非難が高まり、更迭の意見が出るほどでしたが、天皇は“そんなことをしたら乃木は自殺する。”と、不承知でした。国民の批判も高まり、乃木邸に投石や大声での非難、辞職や切腹を勧告する手紙が2,400通も届いたといいます。
11月の第3回総攻撃で乃木大将の次男保典も戦死しました。このとき乃木は“よく戦死してくれた。これで世間に申し訳がたつ。”と述べたといいます。
天皇に復命
1906(明治39)年1月東京に凱旋しました。ロシア軍が3年は持ちこたえると誇っていた旅順の堅固な要塞を半年あまりで攻略したことや、二人の息子が戦死した同情もあり乃木大将の凱旋は大歓迎されました。しかし、乃木の心は沈鬱で、多数の将兵を戦死させたことから各方面で催された歓迎会への招待もすべて断りました。
宮中に参内し天皇へ復命書を奉読しました。将兵の勇敢な戦いぶりを称え、戦没者を悼み、自らの作戦指導について遺憾の意を表し、自刃して罪を償いたいと奏上しました。しかし、天皇は“今は死ぬべきときではない。どうしても死ぬというのであれば朕が世を去った後にせよ。”という趣旨のことばを述べられ、乃木の自刃を思いとどまらせました。乃木大将は第3軍司令官を退任し、軍事参議官になりました。
学習院院長を兼任
1907(明治40)年1月、学習院院長に任命されました。天皇は乃木大将に翌年4月入学予定の皇孫裕仁親王(後の昭和天皇)の教育を託されたのです。当時の学習院は官立で華族の子息が多くのんびりしていました。
そうした雰囲気を一新するために全寮制にして、院長自身も中等科・高等科の生徒と寝食を共にして生活の細部にわたって指導しました。生徒たちは「うちのおやじ」といって敬愛する一方で、質素・勤勉を旨とし、剣道を最重要視する乃木式の教育方針は非文明的であると反発する生徒もいました。
明治天皇大葬の日に夫妻ともに自決
自決当日朝の夫妻明治天皇が1912(明治45)年7月30日に崩御されました。大正と改元され、9月13日大葬の礼が行われました。午後8時出棺を知らせる号砲とともに乃木大将は自宅で軍刀により割腹し、前頸部を突き自刃しました。満62歳でした。静子夫人もほぼ同時に懐剣で心臓を突き刺してそのままうつ伏せとなり自刃しました。満52歳でした。
その前夜に作成された「遺言条々」には、自刃の理由として“西南戦争で軍旗を失い、その後死に場所を求めてきたが機会を得られず生きながらえていた。その間天皇陛下のご厚遇をいただいた。もはや老衰してお役に立つ時もない。このたび陛下が崩御されたことで覚悟を決めた。”という趣旨が第1に書かれていました。
その他、乃木家を断絶すること、自宅は赤坂区か東京市に寄付すること、遺書に記載されていない事柄については静子に申しつけておく等の記載がありました。宛名4名の中に静子夫人の名前があり、夫人が自刃するとは思っていなかったことが窺えます。
殉死の反応
乃木夫妻の殉死は世間の人々に衝撃と感銘を与えました。9月18日、青山斎場で夫妻の葬儀が行われた際、乃木邸から葬儀場までの沿道はおよそ20万人もの人々で埋め尽くされました。外国人も多く参列しました。
乃木大将の殉死について、ドイツ留学以来交流があり、陸軍省医務局長でもある森鷗外はすぐさま殉死をテーマに『興津弥五右衛門の遺書』(おきつやごえもんのいしょ)を書き、夏目漱石は『こころ』(1914年4月20日~8月11日『朝日新聞』に連載)で主人公「先生」の自殺の動機を、“明治の精神が天皇に始まって天皇に終わったような気がしました”“明治の精神に殉死する”として乃木大将の殉死を擁護しました。
一方で芥川龍之介や白樺派の武者小路実篤、志賀直哉らは批判的でした。芥川は後に『将軍』(1922年『改造』1月号)で乃木大将がモデルと思われる将軍を風刺しています。新聞も殉死に対して肯定的にとらえるものと否定的・批判的にとらえるものと分かれました。
夫妻の自決後、乃木邸を訪れる人が多く、乃木大将の忠誠心と高潔な人格を崇敬する人々によって乃木神社が創建されていきます。邸宅前の坂は「幽霊坂」あるいは「新坂」と呼ばれていましたが、葬儀の後「乃木坂」と改名されました。墓所は乃木神社からも近い青山霊園の「1種ロ10号26側」です。



