現在、「明治の女子教育史散策」執筆中の元国語教師ゆうこさんに、『大山捨松(おおやますてまつ)』さんの名言と、名言の背景にある半生やおすすめ本を紹介してもらいます。
『新渡戸稲造の至言』共著。
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明治新政府は欧米に追い付くように近代化を急ぎました。しかし、「学制」や「医制」などさまざまな制度の中で女性は置き去りにされていました。そうした中で、女性に閉ざされていた道を切り開いたり、思考を転換したり、あるいは海外に活躍の場を見つけたりして活躍した女性たちがいます。そんな女性たちのピンチをチャンスに変えるきっかけになった名言を紹介します。
目次
「鹿鳴館(ろくめいかん)の花」大山捨松のピンチをチャンスに変える名言
「ああアリス…日本に住む以上は、女性は結婚しなければどうにもならないのです。」
~大山捨松(おおやますてまつ)
女子英学塾(現津田塾大学)顧問、赤十字看護会理事など~
大山捨松は、1871年12月、満11歳で国費留学生として、津田梅子(現津田塾大学創立者)ら4人の少女と一緒に渡米しました。名門女子大学ヴァッサーカレッジを優秀な成績で卒業し、アメリカの大学で学位を取得したアジア人女性第1号となりました。日本に帰ったら女子教育に生涯を捧げようと、梅子と一緒に1882年11月帰国しました。しかし、男子留学生にはすぐに大学や官吏の仕事が与えられるのに、女性の大学教授は前例がないとして仕事がありませんでした。
当時女性の結婚適齢期は16~18歳くらい。22歳の捨松に、心配した親戚や知人からつぎつぎと縁談が持ち込まれます。しかし、国費留学生として学んだからには、何か日本のために働かなければならないという義務と責任感が強く、結婚に踏み切れませんでした。母から20歳を過ぎた捨松にもう縁談は来ない、売れ残りだなどとプレッシャーをかけられます。このような状況の中、留学時代のホストファミリーで、姉妹同様に育ったアリス・ベーコンに宛てた手紙(1883年2月20日付)の一節がこの言葉でした。捨松の嘆きが聞こえるようです。
大山捨松の生涯
・家老の娘から激変、地獄を見る
捨松は万延元年2月24日(1860年3月16日)、父会津藩(現福島県)国家老山川尚江と母唐衣の12番目の子として生まれました。幼名は咲子。咲子が生まれる一ヶ月ほど前に父は病死しましたが、祖父が父親代わりになり、家老の娘として何不自由なく育ちました。しかし、8歳の時、1868年4月に始まった新政府軍との戦いで生活は激変します。
8月23日、籠城を告げる早鐘が鳴り響き、咲子は母や姉たちと鶴ヶ城に入り、死を覚悟して戦います。9月14日、約3万の新政府軍が城を囲み、約60門の大砲で総攻撃を開始しました。義姉が亡くなり、捨松も首を負傷しました。城内はたちまち地獄と化し、22日降伏。会津藩23万石は滅びました。それから15年後、咲子がこの会津攻めの砲兵隊長と結ばれることになろうとは、まだ知る由もありませんでした。
1869年11月、生後6ケ月の松平容大(かたはる)を藩主として再興が許されました。翌年春から旧会津藩士とその家族約1万7千人は、本州最北の下北半島に移り、3万石の斗南(となみ)藩(現青森県)として再出発しました。北の広大な大地に復興を託したのですが、1年の半分は雪に覆われ、想像以上に寒さ厳しい不毛の地で、実質7千石ほどの収穫しか得られません。食料は不足し、死者が続出しました。まさに生き地獄でした。食べる物にも事欠き、11歳の時、咲子は半年ほど函館のフランス人の家庭に預けられました。
・アメリカへ留学
長兄山川浩(後に陸軍少将、東京師範学校〈現筑波大学〉校長)の勧めで、咲子は北海道開拓使が募集したアメリカへの女子留学生に応募しました。留学期間は10年、費用は一切官費で支払われる上に、年間800ドルもの小遣いが支給されます。出発に際して、母は「捨てたつもりで、帰ってくる日を待つのみ」という思いを込めて「捨松」と改名させました。
捨松は、コネティカット州の牧師レオナルド・ベーコン宅に引き取られ、特に末娘で2歳年上のアリス・ベーコンと長く友情を結びます。1876年にキリスト教の洗礼を受けました。1年の延期を願い出て、1882年6月、生涯で一番幸福で希望に充ちた4年間だったというヴァッサーカレッジを卒業しました。2ケ月ほど、コネティカット看護婦養成学校に短期入学し、看護法などを学び、11月、11年ぶりに帰国しました。
・学位を取ったけれど…
学位を取ったのに、日本語の読み書きが不自由なため、仕事がありませんでした。あせる捨松は、家を出て英語の個人教授で自立しようと考え、アリスに100ドルの借金を願い出たほどです。
3回も高名な人達からの縁談を断りました。一緒に留学した瓜生繁子(旧姓永井)の夫外吉の留学仲間で、大学で英語を教えている若く有能な男性から熱烈にプロポーズされ、捨松の心は揺れ動きます。
帰国して4ケ月、ようやく文部省から東京女子師範学校(現お茶の水女子大学)で生物と生理学を教える仕事がきました。しかし、日本語の教科書を使い、日本語で板書するのはとても不可能であきらめざるをえませんでした。
・ついに結婚へ、政府高官の後妻に
ついに日本に住む以上は、女性は結婚しなければならないと考えるようになり、「…私は今この結婚を真剣に考えています。現在のところ私が就職できるような仕事はまったくありません。…今一番やらなければならないのは、社会の現状を変えることなのです。日本では、それは結婚した女性だけが出来ることなのです。…教育に一生を捧げることは厭いませんが、たとえ私の夢をあきらめたとしても何か別の方法で日本の国の役に立つことができないものかと考えるようになりました。…」と、アリスへの手紙(1883年4月5日付)に書いています。
このような葛藤を経て、捨松は、1883年11月、参議陸軍卿大山巌(いわお)の後妻となりました。大山は18歳も年上で、7歳、4歳、2歳の娘たちがいました。大山の先妻沢子は、前年8月に四女を出産後亡くなっていました。
大山の後妻に捨松を勧めたのは沢子の父吉井友実でした。大山は、政府高官として外国人との付き合いも多く、幼い娘たちの教育などを考え合わせると、教養があり、英語・フランス語・ドイツ語ができる捨松が最もふさわしいと吉井が大山に勧めたのです。
・仇敵との結婚など言語道断! 西郷隆盛の弟従道が山川家を説得する
岳父の吉井を介して山川家に結婚が申し込まれました。捨松の兄浩はこのころ陸軍大佐で、大山は浩の上司でした。しかし、かつて鶴ヶ城を攻略した仇敵薩摩人になど、たとえ上司の申し出であっても言語道断と、断りました。
そこで、説得役を買って出たのが、西郷隆盛の弟であり、大山のいとこでもある農商務卿西郷従道でした。従道は何度も山川家を訪れ、「今や日本は日本人同士が敵だ味方だといって争う時ではない。一般の人の模範となるように昔の仇同士が手を握って新しい日本の建設にあたるべきだ」と説得しました。ついに山川家も本人が承諾するならと態度を和らげました。
・捨松、デートを提案
捨松は、大山の人柄を見定めるために、当時としては珍しいデートを提案しました。捨松は日本語がたどたどしい上、大山の薩摩弁がさっぱりわかりませんでしたが、英語やフランス語で話すと会話がはずみました。大山も欧米留学の経験があり、西洋好みでビーフステーキが大好物でした。何度かデートを重ね、大山の人間的な素晴らしさ、心の寛さに好感を持ち、この人となら日本のために何か働けると確信し、交際3ヶ月で結婚に踏み切ったのです。決して政府高官の地位に目がくらんで、望まない結婚をしたわけではありません。
・「鹿鳴館の花」と呼ばれて
1883年12月、新装の鹿鳴館で内外の約1,000人を招いて大山と捨松の結婚披露宴が行われました。鹿鳴館は、幕末に欧米諸国と結んだ不平等条約改正のために、外国人接待所として政府が建設しました。捨松は、入退場する来客一人ひとりと握手をしたり、夫人をエスコートする西洋式マナーを知らない日本人の夫に、置き去りにされた夫人たちの相手をしたり、外国人記者からも完璧なホステスぶりと称賛されました。
その20日後に行われた鹿鳴館の開館式の夜会を皮切りに、毎晩のように内外の紳士淑女たちを集めて晩さん会や舞踏会が行われました。当時、上流・中流階級の女性は家に居ることが当然とされ、社交の場に出る習慣がありませんでした。政府高官夫人でさえも外国駐留の経験などがなければ、外交や接待などできない女性が大半でした。そのような中で、美しく長身の捨松は、ワインカラーのビロードの夜会服がよく似合い、流暢な英語で外国人と言葉を交わし、軽やかにダンスのステップを踏み「鹿鳴館の花」と呼ばれるようになりました。
いわゆる鹿鳴館時代(1883~1887年)に捨松は、陸軍大臣大山巌伯爵夫人として、出来る限り夜会や舞踏会に出席しました。日本が文明国であることをアピールし、不平等条約の改正に少しでも役立つのであればという思いからでした。
しかもこの4年間に3人の子供を出産(一人は早産で死亡)しています。お腹に子どもを身ごもりながらダンスのお相手をしていたのです。
・捨松の功績
捨松は、1884年7月、政府高官夫人や令嬢たちを指揮して、日本初のチャリティーバザーを鹿鳴館で3日間行いました。そしてその収益金で有志共立東京病院(現慈恵医科大学病院)に日本初の看護婦教育所が設立されたのです。
1900年9月、津田梅子が女子英学塾を創立するにあたり顧問となり、後に社団法人を組織して理事の一人となります。同窓会会長も引き受け、生涯全面的に協力しました。
日露戦争(1904年2月~1905年9月)時、捨松は上流階級の婦人を集めて、日本赤十字社篤志看護婦会を主導し、負傷兵の看護や包帯作り、貧しい出征家族への支援などを行いました。
捨松は、優れた才知と行動力があり、少女期に極貧の生活を経験しただけに、情に厚く人に親切でした。本来年長者の自分が中心になって学校を創るつもりでいました。しかし、それが叶わない状況から、思考を180度転換して結婚を選びました。
政府高官夫人となって、上流階級の夫人や令嬢たちを社会活動に参加させ、意識を変えていきました。直接女子教育に携わることはできませんでしたが、アメリカでの経験や学びを生かし、できるかぎりの社会貢献を行うことで、国費留学生としての責任を果たそうとしました。こうしてピンチをチャンスに変えたのです。
・スペイン風邪で逝去、お墓
1919年1月、捨松は、前年から世界的に流行していたスペイン風邪に感染してしまいました。同じころ、以前から病で入退院を繰り返し、塾長辞意を表明した津田梅子の後任問題が難航していました。捨松は、病を押して後任候補者の説得に奔走し、ようやく承諾を得て、2月5日の就任式に列席しました。しかし、その翌日から床に就くようになり、一時回復に向かっていましたが、再び高熱が出て容態が急変し、2月18日の朝逝去しました。満58歳でした。
西那須野の大山家の墓所に巌とともに眠っています。参道は紅葉の名所です。公開についてはお問合せください。
墓所住所:栃木県那須塩原市下永田1丁目 TEL:0287-37-5364
NHK大河ドラマ『八重の桜』に登場
2013年に放送された『八重の桜』に、少女の咲子が母や姉たちと鶴ヶ城で奮戦する様子や、成長した捨松が鹿鳴館で華やかに活躍する様子などが描かれていました。
大山捨松に関するおすすめの本
『鹿鳴館の貴婦人 大山捨松――日本初の女子留学生』
大山捨松のひ孫にあたる久野明子氏が、アメリカの捨松ゆかりの地を訪れ、100年もの間ベーコン家に保管されていた捨松の40通近い手紙を元に書いた評伝です。捨松の悩みや苦しみ、また喜びなどがいきいきと描かれています。1988年中央公論社刊、1993年中公文庫刊。
まとめ
いかがでしたでしょうか。だれしも結婚か仕事か、またその両立か悩むところです。
捨松は、家老の娘、極貧の生活、留学生活、公爵夫人という波乱に富んだ生涯を送りました。常に国費留学生としての責任を果たそうと努めながら、先妻が残した3人の娘と、自分が生んだ1女2男の家庭教育も怠りませんでした。
皆さんももしピンチに陥ったら、捨松のように考え方を変えて、置かれた立場でできることを精一杯やれば、道が開けるかもしれません。