六波羅蜜寺(ろくはらみつじ)は、西国三十三所17番札所。平安時代中期の963年に「市の聖(いちのひじり)」とよばれた空也上人(くうやしょうにん)が建立した西光寺に始まります。
空也上人といえば、歴史の教科書でもおなじみの、口から6体の仏様を吐き出している像で知られています。なぜあのような像が作られたのでしょうか。
高貴な出自でありながら、常に庶民に寄り添った空也上人。その祈りを求めて多くの人々が訪れる六波羅蜜寺の見どころや評判のおみくじをご紹介しましょう。
目次
目次
六波羅蜜寺とは
山号:補陀洛山(ふだらくさん)
寺号:六波羅蜜寺(ろくはらみつじ)
宗派:真言宗智山派
本尊:十一面観世音菩薩(国宝)
開基:空也(くうや・こうや)
951年、京の都に疫病が流行し、死者があふれていました。空也上人は十一面観世音菩薩像を彫り、車に乗せて念仏を唱えながら市中を引き歩きました。青竹を蓮の花びらのように八つに薄く割ってお茶をたてて仏像に献じ、そのお茶に梅干しと結んだ昆布を入れて病者に与え、多くの人々を救いました。
963年、空也上人は鴨川岸に僧600人を集めて、600巻の般若経を書写し、転読する大般若経供養会を行いました。当時、六波羅の地域は、都の葬儀場である「鳥辺野(とりべの)」への入り口であり、鴨川の東岸は遺体の捨て場になっていたからです。
この供養会の後、結縁を願う人々が浄財を集めて堂宇を建立し、空也上人が彫った十一面観世音菩薩像を安置し、西光寺としました。
972年に空也上人が亡くなり、高弟で比叡山の僧中信が伽藍を整えて、六波羅蜜寺と改称しました。庶民だけでなく、朝廷の信頼も厚く、広大な寺域を占め、天台別院として栄えました。
平安時代後期になると、平忠盛が寺内に軍勢を止めてから、清盛・重盛ら平家一門5200余りの邸宅が立ち並んだといいます。そのため、1183年の平家没落の時の兵火を受けて本堂以外は焼失してしまいました。
鎌倉時代には、幕府によって、京都の警護と朝廷を監視するために「六波羅探題」がこの付近に置かれ、北条・足利の時代にも兵火の中心となりました。しかし、源頼朝、足利義詮(あしかがよしあきら)、豊臣秀吉、徳川の代々将軍によって火災にあうたびに再興修復されてきました。
現在の本堂は、南北朝時代の1363年に再建されたもので、明治初年の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)運動により荒廃していましたが、1969年、開創1000年を記念して、解体修理が行われ、鮮やかな丹塗りの本堂が蘇りました。
六波羅蜜寺・入り口の石柱門、手水鉢
門を入って右側に手水鉢があります。こちらで手と口をすすぎます。
六波羅蜜寺・十一面観世音菩薩像、一願石
すずやかな十一面観世音菩薩様が迎えてくれます。その横に一願石があります。一つだけ願いごとを心の中で唱え、祈りをこめて金文字から手前に3回まわします。
六波羅蜜寺・本堂(重要文化財)、本尊(国宝)
本堂は1363年の再建で、京都では応仁の乱(1467年~77年)以前の建築物はほとんど残っていないため、貴重な存在で、重要文化財に指定されています。
寄棟造、壁は漆喰、朱塗りの大きな板扉があります。内陣が、外陣より低く作られている天台式建築の特徴を持っています。これは開創当初天台宗であったためです。
内陣には三つの厨子が安置されており、その中央がご本尊。空也上人が彫ったという一木造の十一面観世音菩薩立像で、像高2m58cmの巨像。10世紀ごろの作風を示す貴重な例で、国宝に指定されています。秘仏のため、12年に一度辰年に開帳されます。お前立ち様でその姿をしのびます。
六波羅蜜寺・空也上人に会える宝物館
空也上人とは
平安時代中期の903年ごろに誕生し、972年10月20日に西光寺(現在の六波羅蜜寺)で亡くなりました。醍醐天皇の第2皇子という説がありますが、本人は自分の出生について語ることはありませんでした。
922年ごろ尾張国分寺で出家し、空也と名乗りました。若いころから「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えながら諸国をめぐり、橋をかけ、井戸を掘り、寺院を造り、貧しく病める人々を救ったといいます。人々は親しみを込めて「市の聖」とよびました。948年比叡山天台座主・延昌のもとで受戒し、「光勝」の号を受けました。
宝物館に安置されている木造空也上人立像は、念仏を唱えて歩く上人の口から、6体の阿弥陀如来が現れたという伝説をもとに、鎌倉時代に運慶の四男康勝が制作したもので重要文化財に指定されています。
膝までの粗末な皮衣とわらじ履き、首から鉦(かね)を下げて、右手に撞木(しゅもく)、左手に鹿の角がついた杖を持ち、6体の小さな阿弥陀仏を針金でつなぎ、口から吐き出すように取り付けられています。その奇抜で迫力ある姿に思わず釘付けになります。
空也上人は、鞍馬山で過ごしたとき鹿の鳴き声を心の友としていました。ある日猟師が鹿を殺したことを知り、大変悲しんで、その鹿の皮と角をもらい、皮衣として身にまとい、角を杖につけて用いたといいます。
宝物館は本堂の奥にあり、平安・鎌倉時代を代表する14体の重要文化財がずらりと並んでいます。空也上人立像をはじめ、平清盛坐像(鎌倉時代、作者不明)、地蔵菩薩立像(平安時代、定朝作)、「夢見地蔵」ともよばれる運慶作の地蔵菩薩坐像(鎌倉時代)、運慶とその長男の湛慶の像、薬師如来坐像と四天王立像(増長天は鎌倉時代、他の3体は平安時代)などが安置されています。
手に髪の毛の束を持つお地蔵様!
定朝(じょうちょう)作の地蔵菩薩立像にはこんな伝説があります。
定朝は、平等院鳳凰堂の阿弥陀如来坐像を制作した有名な仏師です。この地蔵菩薩立像は、かつて境内にあった「六波羅地蔵堂」の本尊で、「鬘掛地蔵(かつらかけじぞう)」の別名があります。
ある娘が、父親が不在のときに母親が亡くなり、葬儀の費用を工面できずに途方にくれていました。すると一人の僧侶が現れて、母の弔いと埋葬を引き受けてくれました。その娘はお布施の代わりに、自分の黒髪を切って僧侶にわたしました。後日、以前に母とよくお参りした六波羅蜜寺に行ってみると、なんとお地蔵様の片手に、自分が僧侶にわたした髪の毛の束が握られているではありませんか。母を弔ってくれた僧侶はお地蔵様の化身だったのです。
人々の苦難を身代わりとなって救ってくださるというお地蔵様にまつわる伝説をもとに定朝が制作したのでしょうか。
入館料は大人600円ですが一見の価値があります。見学希望の場合はあらかじめ入り口の受付で、その旨伝えてください。8:30~17:00(受付は16:30まで)
六波羅蜜寺・弁天社
入り口の石柱門を入ると左側にあります。室町時代におこった七福神巡りでは、日本最古の「都七福神」の一つで、金色に輝く福寿弁財天が祀られています。
「福徳自在」「金運成就」「技芸円満」のご利益があります。
六波羅蜜寺・金運がつく銭洗い弁財天の「御堂」
境内の奥、本堂の右手にあります。この「御堂」の中には、石造の銭洗い弁財天が祀られています。ザルにお金を入れて、ひしゃく1杯の水で3回に分けて清めます。清めたお金を貯えておくとお金がたまるそうです。授与所で清めたお金を入れる「金運御守」の袋(500円)を購入できます。
「御堂」には、勝運の水掛不動尊、水子地蔵尊も祀られていました。七福神の御朱印はこちらでいただきます。
六波羅蜜寺・道元禅師御説法之遺蹟
鎌倉時代初期の禅僧道元禅師は、1243年に六波羅蜜寺で説法をしたと伝えられています。
道元禅師はこのあと越前に下り、福井県の永平寺を開山しました。生涯をかけて執筆した『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』は多くの人々に影響を与えました。