奈良県桜井市にある法起院(ほうきいん)は、長谷寺を開き、西国三十三観音霊場の創始者でもある徳道上人が晩年を過ごしたお寺です。通し番号がつかない番外ですが、霊場創始に深く関係するお寺として、巡礼では合わせてお参りする習わしになっています。伝説に満ちた徳道上人の隠棲の地、法起院とはどのようなお寺でしょうか。見どころをご紹介します。
目次
目次
法起院(ほうきいん)とは
山号:豊山(ぶざん)
寺号:法起院
宗派:真言宗豊山派
開基:徳道上人(どくどうしょうにん)
本尊:徳道上人坐像
727年、徳道上人は、聖武天皇の勅命で衆生のために巨大な十一面観世音菩薩像を造り、初瀬山の東の岡に観音堂を建立し安置しました。これが現在の8番札所長谷寺です。
徳道上人にはこんな不思議な伝説があります。
718年、病気のため仮死状態になり、冥土で閻魔大王から「三十三所観音霊場を世に広めよ」とお告げを受け、起請文と宝印を授かり、生き返りました。上人は、観音菩薩の霊験所や寺院に説いてまわりましたが、なかなか信じてもらえず、やむなく中山寺(兵庫県)に宝印を埋めました。
それから約270年後、花山法皇(かざんほうおう)が宝印を掘りだし、西国三十三所霊場を再興されたと伝えられています。
こうした伝説から西国三十三観音霊場の創始者といわれる徳道上人が、晩年を過ごしたのが法起院で、長谷寺の塔頭(たっちゅう)となっています。
735年に創建され、1695年に長谷寺の英岳僧正によって再建されました。
法起院・山門
法起院の山門は、長谷寺の門前商店街の中ほど、右側の少し奥まったところにあります。門柱の左側には「長谷寺開山 徳道上人御廟所」、右側には「総本山長谷寺開山坊 法起院」と書かれています。
法起院・本堂とご本尊、隠し鬼瓦(かくしおにがわら)
山門をくぐるとすぐ正面が本堂です。長谷寺の登廊(のぼりろう)と同じ長谷型燈籠が左右に吊り下げられています。長谷寺に付属する寺院であることを表しています。
ご本尊は、徳道上人自らが彫ったと伝えられている「徳道上人坐像」で、拝顔できます。
普通本堂は南向きか東向きに建てられるのですが、こちらの本堂は北向きに建てられています。それは長谷寺の観音様と対面するように建てられているからです。
そのため屋根の上には珍しい「隠し鬼瓦」があります。屋根の左側の鬼瓦は、隣にある与喜天満神社(よきてんまんじんじゃ)に面することになるので、鬼の顔が隠されているのです。
与喜天満神社は、菅原道真公をご祭神とする日本最古の天神社で、天照大神(あまてらすおおみかみ)が降臨された聖地とも伝えられています。神社の背景にある与喜山(国指定天然記念物)は、千古以来斧を入れていない御神体山。大和の国で最初に太陽が昇る山として古代から崇められてきました。神社も含めてパワースポットとして知られています。
そのような由緒ある与喜天満神社に、鬼の顔を向けるのを遠慮したものと思われます。厄除けの鬼瓦に隠し板がくっついているなんて、なんだかユーモラスですね。
法起院・徳道上人の御廟「十三重石塔」と御砂踏み
本堂の左手奥に、徳道上人の御廟があり、供養塔の「十三重石塔」が建てられています。周囲には西国三十三所観音霊場のお砂が納められていますので、ここを回ることで三十三所をお参りしたのと同じご利益がいただけます。
法起院・願い事が叶う多羅葉樹(たらようじゅ)
御廟の中に、「多羅葉樹」があります。葉の裏にとがったもので文字を書くと文字が浮かび上がってきます。昔はこれに文字を刻んで通信に使ったとか。葉の裏に書いたことから「葉書(はがき)」の語源になったといわれています。
「まだ書かれていない葉を見つけたら葉の裏に願いごとを書いてみてください。願いを成就させるために葉は取らずに残しておいてください」と書いてありました。
法起院・徳道上人沓脱の石(とくどうしょうにんくつぬぎのいし)
本堂の左側にあります。徳道上人は、80歳のときに松の木から「法起菩薩(ほうきぼさつ)」となって飛び去ったという伝説があります。そのときに沓を脱いだ跡が石に残ったものだそうですが…。写真の右下の石です。この伝説からお寺の名前が法起院となりました。
ちなみに法起菩薩は、金剛山(奈良県と大阪府との境目にある山)の転法輪寺にしか祀られていないそうです。左右の目の上にさらに二つの目と眉間にも目を持ち、腕は6本という五眼六臂の農耕の守護神だそうです。
徳道上人さまは金剛山に飛んで行かれたのでしょうか。
法起院・馬頭観世音(ばとうかんぜおん)、弘法大師堂
馬頭観世音と弘法大師が祀られているお堂です。
馬頭観世音は頭の上に馬の頭を置いて、憤怒の形相で諸悪を食い尽くし、災いを除いてくれる観音さまです。弘法大師は平安時代初期の僧で、中国より真言密教をもたらした真言宗の開祖です。
