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【真田神社】は智恵の神、合格・必勝にご利益あり!見どころ&御朱印

真田神社
真田神社は、長野県上田市の上田城跡公園の中にあり、上田城の歴代城主が祀られています。特に戦国時代の武将真田昌幸は、息子の信之・幸村とともに巧みな戦術を用いて、少ない兵士で大軍の徳川勢を二度も撃退したことで知られています。

上田城は不落城と言われ、真田神社には、合格祈願・必勝祈願に多くの人が訪れます。石垣や櫓(やぐら)とともに本丸跡に鎮座する真田神社の魅力をご紹介しましょう。

真田神社のご祭神

真田(さなだ)氏、仙石(せんごく)氏、松平(まつだいら)氏の各歴代城主

真田神社の建立

1879(明治12)年、長野県から創立の許可が下り、松平(しょうへい)神社として始まりました。

真田神社の建立のいきさつ

明治維新の廃藩置県で、上田藩は廃藩となり、上田城は国に接収され、その後民間へ払い下げとなりました。城跡が桑園や麦畑に姿を変えていく中で、旧上田藩士などから旧藩主松平氏の御霊を祀る神社を建立したいという声が上がりました。松平氏は、江戸中期から廃藩まで7代160年余りの城主でした。

本丸跡の所有者となっていた丸山平八郎氏の寄付により、1879年、本丸跡に松平神社の創立が実現しました。

その後、1953(昭和28)年、上田城を築いた真田氏、関ケ原合戦後荒廃していた上田城を復興させた仙石氏を合祀し、上田神社と改称しました。

しかし、1963(昭和38)年、市内にあった同名の他社と紛らわしいこともあり、初代上田城主の真田氏の名前を冠して真田神社と改称しました。

真田神社の見どころ

本丸東虎口櫓門(ほんまるひがしこぐちやぐらもん)

真田神社,本丸東虎口櫓門
虎口とは、城内への敵の侵入を防ぐために城の門に枡形(ますがた)を造って曲げるようにした出入口のことです。

この櫓門の右に南櫓、左に北櫓が1949年に復元され、1959年に長野県宝に指定されました。

この櫓門は古写真をもとに1993年に復元されました。風格があります。

南櫓・北櫓・櫓門は観覧できます。一般300円。

手水舎

真田神社,手水舎
本丸東虎口櫓門を入ると、左手にあります。

鳥居

真田神社,鳥居
本丸東虎口の門を入ると、正面にあります。

真田幸村公大兜(おおかぶと)

真田神社,真田幸村公大兜
鳥居をくぐるとすぐ左手にあります。真田幸村が身につけたという鹿角脇立朱塗兜(かづのわきだてしゅぬりかぶと)が再現されています。

朱塗の兜に金色の六文銭が目につきます。写真スポットになっています。

本殿

真田神社,本殿
本殿は上田城本丸跡に鎮座しています。

上田城は、1583(天正11)年、真田昌幸によって築城が始まりました。

昌幸は、武田・織田・上杉・北条・徳川へ次々と臣従を示してうまく立ち回り、沼田・吾妻・小県を真田領とする大名になりました。

しかし、沼田領をめぐって徳川家康と対立し、1585(天正13)年、徳川・北条の約7,000の軍勢と、2,000人弱で戦うことになります。第一次上田合戦です。

できるだけ敵を城に近づけて、城門上から丸太を落とし、矢や鉄砲を撃ったり、城下町に千鳥掛けの柵をしかけたり、農兵を街や山野のあちこちに伏兵させたりしました。こうした奇策と三方が川や崖に囲まれている地の利を生かし、大軍を撃退しました。この戦いで徳川軍は1,300人余りの死者が出たのに対して、真田軍の死者は40人ほどでした。真田昌幸は一躍有名になりました。

1600(慶長5)年の関ケ原合戦では、昌幸と次男の幸村は石田三成を中心とする西軍に付き、長男の信之は徳川家康を中心とする東軍に付くことになり、親兄弟決別します。

昌幸の妻山手殿は三成と姻戚関係にあり、幸村の妻は秀吉の家臣大谷吉継の娘竹林院でしたので西軍に付き、信之の妻は家康の重臣本多忠勝の娘小松姫で、しかも家康が養女として信之に娶らせていましたので東軍に付くことになったわけです。

どちらが勝っても真田家は生き残れるようにとの計らいだったとも言われています。

第二次上田合戦と言われる関ケ原合戦の前哨戦で、家康の三男秀忠が率いる約38,000の大軍を、昌幸と幸村は約2,000の兵力で翻弄し、足止めをしました。天候の影響や家康からの使者の遅れなども重なり、秀忠軍は9月15日の本戦に間に合いませんでした。

関ケ原合戦後、勝利した東軍に付いた信之が上田領主となりましたが、上田城は破却を命じられました。信之は城下町の整備や領内の再建に尽力しましたが、1622(元和8)年、松代に移封となりました。代わって仙石氏が入封し、荒廃していた上田城を修復しました。さらに1706(宝永3)年、松平氏が仙石氏と所領交代となって入封し、明治維新まで城主となりました。

これら真田氏・仙石氏・松平氏の歴代上田城主が祀られ、「智恵の神、智仁勇の真田神社」として崇められています。

真田神社,賽銭箱の上の六文銭

賽銭箱の上の六文銭(ろくもんせん)に手をかざすと鈴の音が聞こえます。

六文銭は真田家の家紋の一つです。三途の川(さんずのかわ)の渡し賃が6文であったことから、死を覚悟して戦う強い決意を表すとして、真田家の家紋=六文銭というように認識されるようになりました。

ねがい玉

真田神社,ねがい玉
本殿の右手にあります。「願い玉」を購入し、願い事を書き入れた後、投入口に入れると、玉は本殿の下を巡って神様の御力を蓄えて手元に戻ってきます。

「願い玉」は持ち帰って大切に保管します。初穂料は800円、袋入り。

真田井戸(さなだいど)

真田神社,真田井戸
城内唯一の井戸だったそうです。直径2m、深さ16.5mの井戸は、抜け穴があり、城の北方にある太郎山麓や藩主の居館に通じていたという伝説があります。神秘的です。

青年真田幸村公之像

真田神社,青年真田幸村公之像
若き日の真田幸村をモデルにした像で、作成者は播磨公次氏です。

幸村の像の後ろに見えるのが本丸西櫓で、江戸初期の建築当初の外観をほぼ残しています。1959年に長野県宝に指定されました。

幸村は、没後60年近く経って、江戸時代の軍記物や講談により「真田幸村」として広く知られるようになりますが、正しくは真田信繁で、真田昌幸の次男として1567(永禄10)年に生まれました。

織田信長の重臣滝川一益、上杉景勝、豊臣秀吉の人質として少青年期を過ごしました。1594(文禄3)年、従五位下左衛門佐(じゅごいげさえもんのすけ)豊臣信繁として叙任され、豊臣直属の大名となります。

秀吉の死後、1600年に起こった関ケ原合戦で、兄信之と敵同士になります。関ケ原合戦は西軍の敗北に終わり、父昌幸と幸村は死罪となるところを、兄信之と舅の本多忠勝の取り成しで、和歌山県高野山麓の九度山に流罪となります。信之は上田領主となって、父と幸村へ生活の援助を続けました。昌幸は10年余りの配流生活の後、1611年6月、65歳で病死しました。

幸村は14年間の配流生活を経て、1614(慶長19)年、徳川幕府と豊臣家の戦い大坂冬の陣の時、豊臣秀頼の招聘を受けて、九度山を脱出し、大坂城に入ります。城の東南平野口に「真田丸」と言われる出城を築き、敵を挑発して十分に城壁に近づけてから射撃するという戦法で、徳川方に大打撃を与え、真田幸村の名を高めました。

翌年の夏の陣では前線の茶臼山に布陣し、何重もの徳川方の備えを突破して、家康の本陣を崩し、家康が切腹を覚悟するほど追い詰めました。しかし、次第に兵力に勝る徳川勢に分断され、撤退せざるをえなくなってしまいます。幸村は傷つき疲れた体を、大坂四天王寺近くの安居神社で休めていたところを発見され、討ち取られました。

この夏の陣で家康を追い詰めた勇猛果敢な名将として、幸村は、敵方からも「日本一の兵(ひのもといちのつわもの)」などと称賛され、語り継がれることになります。

兄信之が書き残したものによりますと、幸村は、率直で飾らず細やかな心情の持ち主であったようです。滅びゆく豊臣方に最後まで義を貫いた武将として絶大な人気があります。

伊勢神宮内宮遥拝所(いせじんぐうないくうようはいしょ)

真田神社,伊勢神宮内宮遥拝所
本殿の左手奥にあります。256㎞ほど離れた伊勢神宮をここから参拝できるようにと設けられました。

絵馬のトンネル

真田神社,絵馬のトンネル
絵馬掛け所がトンネルのようになっています。

朱塗り兜の絵柄に必勝祈願と書かれた絵馬は力強く、ご利益をいただけそうです。

おみくじとおみくじ結び所

真田神社,おみくじ
真田神社,おみくじ
両側の壁にたくさんのおみくじがきれいに飾られていました。どれにしようかと迷います。
真田神社,おみくじ結び所

真田神社のご利益

健康・開運、恋愛・安産など諸祈願のご利益がありますが、特に、戦国時代に二度にわたり徳川の大軍を撃退したことから、不落城として合格・必勝祈願にご利益があり、受験生に人気があります。

真田神社の御朱印・御朱印帳

真田神社,御朱印
こちらは期間限定の見開きの特別朱印で、色とりどりのもみじと金の兜がきれいです。

兜の上に、幸村が大坂夏の陣の直前に、義兄小山田茂誠に送った手紙の一節「定めなき浮世にて候へば一日先は知らざることに候(今は乱世のため、明日の自分はどうなるかわかりません)」という言葉が書かれています。幸村の覚悟が感じられる言葉です。

右下には「智仁勇」の印も。初穂料は800円でした。通常朱印(500円)もあります。

真田神社,御朱印帳

御朱印帳を購入しました。写真は、表紙(右)と裏表紙(左)をつけて撮ったものです。赤兜と六文銭があしらわれた赤備えの御朱印帳です。1,700円。

真田神社,クリアファイル,しおり

見開きの御朱印にクリアファイル、御朱印帳にしおりをつけてくださいました。サービス満点です。

真田石(さなだいし)

真田神社,真田石
本丸東虎口櫓門を出ると、左側にあります。

中央の巨大な石に圧倒されます。真田信之が松代に移封となった時、父の形見として持っていこうとしましたが、びくともしなかったという伝承があります。

真田三代の写真スポット

真田神社,真田三代の写真スポット
向かって左側から、昌幸、幸村、幸隆(幸村の祖父)です。

真田神社アクセス

〒386-0026 長野県上田市二の丸1-12 上田城址公園内

☎0268-22-7302(社務所) 受付時間 9:00~16:00

JR上田駅から車3分、徒歩10分

近隣の真田氏ゆかりのスポット

長谷寺(ちょうこくじ) 真田氏の菩提寺・墓所

真田神社,長谷寺(ちょうこくじ) 真田氏の菩提寺・墓所
1547(天文16)年、真田幸隆が真田氏の菩提寺として建立しました。その後、昌幸が父の菩提のために寺の増改築を行い、諸堂を完備したと伝わります。しかし、1600年の第二次上田合戦の際、退却する徳川軍に火を放たれて焼失しました。

現在の建物は1978(昭和53)年に再建されたものです。曹洞宗の寺で、釈迦牟尼仏坐像(しゃかむにぶつざぞう)を本尊としています。

真田神社,長谷寺(ちょうこくじ) 真田氏の菩提寺・墓所

幸隆公夫妻と昌幸公の墓所です。中央が幸隆公、その左が幸隆公夫人、右が昌幸公の墓。

〒386-2201 長野県上田市真田町長4646番地 ☎0268-72-2040

山家神社(やまがじんじゃ) 真田氏が崇敬した古社

真田神社,山家神社(やまがじんじゃ) 真田氏が崇敬した古社
開山から1,300余年の歴史があり、延喜式神名帳に名前が記載されている由緒ある古社です。四阿山(あずまやさん)を御神体とし、ご祭神は大国主神(おおくにぬしのかみ)、伊邪那美神(いざなみのかみ)、菊理媛神(くくりひめのかみ)です。

古くから国司や守護職はじめ民衆からも広く崇敬されましたが、特に真田氏の崇敬が深い神社でした。1600年の第二次上田合戦で全焼しましたが、翌年真田信之が再建しました。その後も明治の廃藩置県まで、上田城の鬼門除けの神、城の守護神として上田藩の人々の崇敬を集めました。現在の社殿は明治21年に再建されたものです。

真田神社,山家神社の御朱印

山家神社の御朱印です。初穂料は500円。

社殿の周囲に神々を祀る古い祠がたくさんあり、素朴で厳かな雰囲気が漂っていました。

真田神社,山家神社の巨大石

こんな犬のような巨石がありました。可愛かったのでついパチリ。

真田神社,真田幸隆・昌幸・信之・幸村を祀る真田神社

境内に真田幸隆・昌幸・信之・幸村を祀る真田神社も設けられていました。

〒386-2201 長野県上田市真田町長4473番地 ☎0268-72-5700

まとめ

いかがでしたでしょうか。

真田神社は、戦国の世を智恵と武勇で生き抜いた真田氏、徳川の政権下で尽力した歴代の上田城主を祀っているので、身近に感じられ、至る所でパワーをいただけます。

真田幸村の名は、江戸中期の軍記物『難波戦記』に登場し、江戸後期に成立した講談本『真田三代記』で、徳川家康を相手に奮闘する姿が描かれ、幸村はスーパーヒーローとなりました。

さらにこれらを元に、大正時代に『立川文庫(たてかわぶんこ)』という講談を筆記して小型本にした『真田幸村』や『猿飛佐助』『霧隠才蔵』などが出版され、少年たちの間で大人気となりました。幸村の家来として創作された「真田十勇士」が、実在の人物であるかのように語り継がれる現象が起こったほどです。

『真田十勇士のウォーキングマップ』の看板は、JR上田駅前にあったものです。
真田神社,真田十勇士

昭和時代以降も池波正太郎の『真田太平記』をはじめとして、小説、ドラマ、映画、漫画、アニメ、ゲームなどに描かれ、現在でも人気の高い人物です。

2016年、NHK大河ドラマの『真田丸』で再びブームを呼び起こしました。そして2023年1月から放映されている大河ドラマ『どうする家康』でも、おそらく大坂冬の陣・夏の陣に真田幸村が登場することでしょう。さて、その時、家康はどうするでしょうか。

真田神社,上田城跡公園

上田城跡公園は、約1,000本の桜が3月下旬から4月上旬にかけて咲く桜の名所です。見ごろには「上田城千本桜まつり」が行われ、夜はライトアップもされるそうです。

この機会に訪れて、戦国時代のつわものたちの姿を思い浮かべてみてはいかがでしょうか。

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ABOUT ME
Written by ゆうこ
卯年、山羊座。元国語教師。趣味は、温泉旅行や食べること。百人一首競技かるたは選手&読手A級。お寺や神社に立つと、幾度もの興亡が繰り返され、再建・再生され、長年月維持し、受け継いできた無数の無名の人々がいたことを思わずにいられません。そういう人々の思いを少しでも伝えられたらと思っています。 共著書:『新渡戸稲造の至言』(新渡戸基金発行)『花ひらく女学校』(女子教育史散策 明治後期編)

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