
四国お遍路30番札所である「善楽寺」。高知城へは約6km、JR高知駅まで約4kmという位置にある善楽寺周辺はかつて「神辺郷」と呼ばれ、土佐では最も古くから栄えた地方です。
時は、桓武天皇が在位(781〜806)されていたのちの810年、弘法大師がこの地を訪れ、土佐国一ノ宮の総鎮守として知られる高鴨大明神の別当寺として、善楽寺を開創されたといわれています。
本坊前は開放的な雰囲気が漂い、土佐一ノ宮の別当寺としても栄えた善楽寺。善楽寺が「30番札所」として選ばれるまでには、ちょっとした紆余曲折がありました。それらのストーリーや見どころなど、紹介していきます。
「30番札所」として選ばれるまで

弘法大師による開創以来、神仏習合の寺院としてその威厳を保ち、神仏の信仰を啓蒙して栄えてきた善楽寺。その傾向が最も顕著だったのは、土佐2代藩主・山内忠義公のころでした。彼の庇護を受けたこともあって寺は興隆し、繁栄を極めることとなります。
しかしながら、明治維新に伴う神仏分離の難で状況は一変。善楽寺は廃寺となり、明治9年に再興された安楽寺が30番札所となりました。
昭和5年に善楽寺が再興されるも、どちらを30番札所とするのか長い長い争いは続きました。
一時期には2ヶ寺で納経ができるなど混迷の時期を経て、平成6年1月1日をもってやっと、善楽寺は第30番札所として認められることとなったのです。
善楽寺の境内図

善楽寺のご利益

善楽寺のご本尊は「阿弥陀如来」。「阿弥陀仏」とも称されるもので、全国の寺院のうち、半数以上は阿弥陀如来。それほど日本の仏教において重要かつ、ポピュラーな仏像です。
「阿弥陀如来」の「阿弥陀」には、2つの意味があります。1つは、「アミターバ(阿弥陀婆)」。光明無量、つまり、阿弥陀仏には光明の届かないところがなく、空間的に無限の広がりをみせているということです。
もう1つは「アミターユス(阿弥陀ユ斯)」と呼ばれるもの。寿命無量を意味し、阿弥陀仏の寿命には限りがなく、時間的にも無限であるということを表しています。無限というこれら2つは、すべての人を本当の幸せにする真理であると同時に、心も言葉も及ばない、いわゆる真如であるわけです。
素晴らしい心理でありながら、人々が認識できなければ意味がありません。そこで、私たちと直接関係を持てる立場となり、私たちを救う手がかりを作ろうと形を現されたのが、阿弥陀如来なのです。
善楽寺の阿弥陀如来像は江戸時代末期の木造で、拝顔も可能です。
善楽寺の御朱印
中央の宝印の上に書かれた「阿弥陀如来」は、とても力強いパワーを感じます。
善楽寺の見どころ

十一面観音
参道の入り口には、とても立派な十一面観音が迎えてくれます。善楽寺の本山である、長谷寺の長谷観音をモデルにされているそうです。写真右手の台座が3メートル、上のご本体が約5メートルもあるそうで、全身がうまく撮れませんでした(汗
梅見地蔵
本堂の南に位置しているお地蔵様。1816年建立。
「首から上の病や悩み」に有効という、変わったご利益があります。近年では脳の病気、ノイローゼの快癒から、合格祈願をする参詣者も多いそうです。大師堂の横の梅を仰いでいるように鎮座されていたことから、このような名称がつけられました。納経所では「梅見お守り」や枕カバーも購入できますよ。
子安地蔵

子宝や安産に恵まれるというこちらの子安地蔵は、ある妊婦が難産で苦しんでいた時に、弘法大師が祈念して安産に至ったという伝説があります。とてもご利益がありそうですね。
水舎

納経所の手前にあります。天邪鬼と呼ばれる邪鬼が手水鉢を支えており、そのモチーフは毘沙門天像についている鬼の顔であるとされています。。隣の小さな手水鉢は1753年長宗我部元親が嫡男の哀悼のため、土佐神社で大法会を行った際に、出仕僧が寄進したもので、歴史的価値ありとの呼び声も高いです。
大師堂

大師堂は、本堂の左手にあります。
まとめ
今でこそ、開放的な雰囲気の漂う善楽寺。その雰囲気の裏には、かつての30番札所をめぐる争いがあったわけですね。
梅見地蔵や水舎など、ご本尊である阿弥陀如来以外にも見どころがたくさんの善楽寺。隣の土佐神社はかつての土佐一宮で、重要文化財にも認定されています。
ぜひご一緒に、参拝されてみてはいかがでしょうか。
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