近来、サッカーボールはじめ様々なボールが奉納され、スポーツ選手や修学旅行生などが多く訪れる神宮となっています。そんな不思議な白峯神宮を紹介しましょう。
目次
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白峯神宮とは
- 第75代 崇徳天皇(すとくてんのう)
- 第47代 淳仁天皇(じゅんにんてんのう)
- 創建 1868(慶應4・明治元)年
- 創建者 明治天皇
白峯神宮の歴史
はじまり
由緒によりますと、幕末、第121代孝明天皇は、四国讃岐(香川県)の白峰山陵から崇徳天皇の御霊を京都に移すように幕府に命じました。孝明天皇は、幕末の動乱を憂い、怨霊と恐れられる崇徳天皇を祀り、慰霊してご加護を祈ろうとしたのです。しかし、実現しないまま亡くなりました。
その父帝の遺志を継ぎ、明治天皇が飛鳥井(あすかい)家の邸宅地跡に社殿を建立し、祀ったのが白峯神宮の始まりです。1868(慶應4)年9月6日、明治改元の2日前のことでした。
1873(明治6)年、奈良時代に僧道鏡と恵美押勝(えみのおしかつ)との争いにより、淡路島(兵庫県)に配流となった第47代淳仁天皇の御霊を移し併祀しました。
崇徳天皇(1119~1164年)とは
第74代鳥羽天皇の第一皇子で、院政を行う曾祖父の白河法皇により、5歳で天皇(在位1123~1142年)に即位しました。
白河法皇が亡くなると、鳥羽上皇が院政を開始します。父君に疎まれていた崇徳天皇は、1142年に譲位させられ上皇となります。鳥羽法皇は、第九皇子の近衛天皇を3歳で即位させます。近衛天皇が17歳で亡くなると、鳥羽法皇は、第四皇子の後白河天皇を即位させ、院政を続けました。崇徳上皇と後白河天皇は同腹の兄弟です。
1156年7月、鳥羽法皇が亡くなると、崇徳上皇と後白河天皇との間で、藤原氏や源氏、平氏を巻き込み戦いが起こりました。それが保元の乱(1156年)です。敗れた崇徳天皇は四国の讃岐に流され、8年後に亡くなり、白峰の山腹に葬られました。
御廟の頓証寺殿が、四国八十八ケ所霊場第81番札所白峯寺内にあります。
崇徳天皇が怨霊となったわけは
崇徳天皇は、菅原道真、平将門とともに日本三大怨霊と言われています。
『保元物語』によりますと、崇徳天皇は配所で、仏教に傾倒し、保元の乱で戦死した人々への供養と自身の反省の証に、「五部大乗経」を3年かけて書写し、都近くの寺に納めてほしいと京都仁和寺の覚性法親王(崇徳天皇と同腹の弟)に依頼しました。しかし、後白河法皇が認めず、写経本は突き返されました。せっかくの思いを踏みにじられた崇徳天皇は激怒します。「我が国に限らず、他国でも王位を争い兄弟が戦ったりした。しかし、それを後悔し、手を合わせ、膝を屈して嘆くときは許すものである。
それなのに、来世で正しい悟りを得るために書いた経の置き所さえ許されないのであれば、私は、五部の大乗経を書写した大善根を、三悪道(地獄、餓鬼、畜生)に投げうち、日本国の大魔王となってやろう」と、舌先を噛み切り、血でこの誓いの言葉を写経本の奥に書きつけたのです。それからは、爪も髪も切らず伸び放題にして、天狗のような姿となりました。
崇徳天皇は、結局一度も実権を握ることなく、都に帰ることも許されず、怒りを増大させて1164年に亡くなりました。享年46歳でした。死後もしばらくは罪人扱いのままでした。8年後の1176年、後白河法皇に近い人々の死が相次ぎます。翌1177年には比叡山延暦寺の僧兵による強訴、安元の大火、平家打倒を企てた鹿ケ谷の陰謀発覚などが立て続けに起こり、都の治安は乱れ、政情が不安定になりました。すると崇徳天皇のたたりではないかと、怨霊伝説が生まれたのです。やがて、鎌倉幕府が誕生し、政権が朝廷から武士に移り、以後約700年間武士が政権を執る時代になります。
白峯神宮の見どころ
入口の鳥居と神門
神門は、檜皮葺(ひわだぶき)から銅板葺きに変わりましたが、創建当時の姿を残しています。
手水舎・飛鳥井(あすかい)
飛鳥井は、平安時代から有名な井戸で、清少納言も『枕草子』に「飛鳥井は〈みもひもさむし〉とほめたるこそをかしけれ」と記しています。〈みもひもさむし〉は、「お水は冷たい」という意味で、『催馬楽(さいばら)』という当時の歌謡に歌われた一節です。歌謡では、「飛鳥井は木陰もよし、お水も冷たい、馬草もいいので旅の途中で休むといい」と歌われているのです。
古くからの名水で手と口を清められるなんて素敵ですね。ちなみに清少納言は飛鳥井の他に八つの井戸を上げていますが、明確に現存するのはこの飛鳥井だけだそうです。
霊木 小賀玉の木(オガタマノキ)京都市指定天然記念物
飛鳥井の後ろに大きく根を張る小賀玉の木は、樹齢約800年、高さ約13mで市内では最大級です。元々飛鳥井邸にあったもので、霊を招く霊木と言われています。この根の下から湧き出る地下水は清らかに澄み、神気あふれる飛鳥井の名水となっています。
舞殿・左近の桜(さこんのさくら)・右近の橘(うこんのたちばな)
神門を入ると正面に舞殿があります。向かって右側に「左近の桜」、左側に「右近の橘」が植えられています。これは御所の紫宸殿(ししんでん)に倣ったものです。
なぜか中央に日本サッカーチームを応援する垂れ幕が掲げられていました。
社殿
本殿は流れ造で、下鴨神社の摂社河合神社を模して建造されました。屋根は檜皮葺から銅板葺きに変わりましたが、創建時の姿を伝えています。
ご祭神は、崇徳天皇と淳仁天皇です。どちらも権力争いに敗れ配流となった悲運の天皇ですが、強いパワーを持つ心願成就の神様として崇敬されています。
拝殿の両脇になぜか種々のボールが奉納されています。中には日本サッカー協会はじめ各種スポーツ大会で使用された公式球もあります。そのわけは…
地主社(じしゅしゃ)
拝殿の右側に、地主社があります。
ここに、向かって左側から今宮大神、白峯天神、精大明神、糸元大明神、柊大明神が合祀されています。
白峯神宮の境内は、元々蹴鞠(けまり)や和歌の宗家である飛鳥井家の邸宅があった所です。飛鳥井家では代々「まり」の守護神として「精大明神(せいだいみょうじん)」を祀ってきました。そのため現在では「まりの神様」として、球技・スポーツの上達を願う人々に崇敬され、公式球などが奉納されているのです。
また、蹴鞠はまりを落とさない球技であることから、「落とさない」「落ちない」と縁起をかついで、学問の神様「白峯天神」にお参りをする修学旅行生たちが多く訪れます。
崇徳天皇は怨霊になっていたのですか、大河ドラマでも出ていましたが、不遇でしたね、白峯神宮で蹴鞠とサッカー面白いですね。いつもながら素晴らしい記事楽しく拝読しております。
ご訪問ありがとうございます。崇徳天皇は本当に不運な天皇でしたね。近衛天皇が若くして亡くなったとき、最有力だった崇徳天皇の第一皇子重仁親王が次の天皇に即位していれば、おそらく保元の乱は起こらなかったでしょうし、怨霊にならずにすんだかもしれません。貴族社会ももう少し続いて、また違った歴史展開になっていたかもしれませんね。
白峯神宮が近年スポーツを愛好する人たちのパワースポットになっていたことには、私も驚きました。神宮の縁起を読んで、なるほど蹴鞠との関係かと感心しました。京都に行かれることがありましたら是非立ち寄ってみてください。