
「空海」という僧侶については、学校で何度となく教科書に登場したこともあるので、誰もが知っている名前だと思います。
別名を「弘法大師」とも言い、よくお寺の境内にその銅像が立っていたりするので、見かけたことがある人も多いはずです。
そんな空海ですが、なかなか不思議なお話が伝わっており、もしかすると今もなお、ひっそりと生きているかもしれないというのです。
目次
空海とは

空海は、平安時代の初期に『真言宗』を開いた僧侶で、天台宗の宗祖である『最澄』とともに『最澄と空海』とセットで学生時代に覚えたりしていたのではないでしょうか?
香川県に生まれたとされている空海は、奈良に移って学問にいそしみ、官立の教育機関で学ぶ中で徐々に仏教に傾倒し、その後仏教の修行を始めたのでした。
四国で修行を積んでいたとき、室戸岬にある御厨人窟(みくろど)で、口の中に明星(明るく輝く星、金星)が飛び込んできたときに悟りをひらいたとされています。
このとき、洞窟の中では空と海しか見えなかったため、自分の名前を『空海』と名乗るようになったのです。
空海は遣唐使として唐(中国)に渡り、真言密教を日本に伝えるとともに、816年には修行の場として高野山金剛峰寺を開創し、嵯峨天皇から下賜(かし)された東寺を真言密教の拠点として、その教えを広めてゆきました。
空海は文章を書く技術が非常に高く、また教養の備わった書道の達人でもあり、嵯峨天皇、平安時代の貴族である橘逸勢(たちばなのはやなり)と『日本三筆』と呼ばれていました。
このことから「弘法筆を選ばず」や「弘法も筆のあやまり」などと、ことわざにもなっているのです。
空海は、身分にかかわらず誰もが学べる日本初の私立の学校、「綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)」を京都に設立。
また、土木技術者として讃岐の満濃池(まんのういけ)の改修作業にも携わっていたのです。
このように空海は、宗教だけでなく文化や芸術、教育など幅広い分野で活躍した偉人なのです。
空海に関する逸話

774年に香川県で生まれた空海は、幼名を真魚(まお)と言い、子供のころから神童と呼ばれ、5~6歳にして、泥をこねて仏像を作ったりハスの上に座って仏様と話す夢を見たりと、幼少期から仏教に関した不思議な体験をしていました。
また彼が赤ん坊のころ、香川県を旅していた高僧が、真魚の泣き声を聞いたときに「この子は生まれながらにして仏と縁がある。成長すればきっと仏の教えを広めてまわるだろう」と予言していたのです。
真魚が7歳のときには、高い山に登り、その上で「自分は仏門に入って仏の教えを広め、人々を救いたい。釈迦如来様、もしその願いが叶わぬのなら、この身を仏に供養として捧げます」と叫ぶと、なんと崖から身を投じてしまったのです。
ところが紫の雲が漂ってくるとハスに乗った釈迦如来が登場し、光を放ったところに天女がやってきて、真魚を抱きとめ、釈迦如来は「一生成仏」と宣したのです。
このようにして真魚は、自分の命を捧げるだけの強い気持ちがあることを確信し、仏門に入る決心をしたのでした。
空海は今も生きている?

空海に関しては、835年に高野山にて入定(永遠に瞑想に入ること)し、即身成仏(現世の肉体のまま、修行により悟りをひらいて仏となること)となって、今も高野山の奥の院に、生身の姿のままで眠られていると信じられています。
そして高野山の御影堂には、今もなお毎日お茶とお膳が僧侶たちにより届けられているのです。
かつて空海が入定した日、旧暦の3月21日には、毎年衣類も届けられています。
永遠の瞑想に入った日から数えて56億7000万年後には、空海がお仕えしている弥勒菩薩とともに、人々を救済するために再びこの世に姿を現すという伝説が残されているのです。
実際には空海は835年に高野山で亡くなり、火葬されたのちに高野山の奥の院の地下に納められているということです。



