大神神社(おおみわじんじゃ)は、奈良県桜井市にあり、日本最古の神社と伝えられています。奈良県の東方、記録上最古の道といわれる「山の辺の道(やまのべのみち)」にあります。
『古事記』『日本書紀』に創祀に関する神話・伝説が記され、『万葉集』には多くの歌に詠まれています。
こちらの鳥居は、昭和天皇在位60年を奉祝して建立された日本一の大鳥居です。
三輪山をご神体とし、平安時代には大和国一の宮となり、地域の守護神として崇敬を受けました。別称三輪明神として親しまれ、摂社・末社が多く点在する境内には、ご神威をいただきに大勢の人が訪れます。パワースポットがいっぱいの大神神社をご紹介しましょう。
目次
大神神社の歴史
ご祭神について
由緒によりますと、ご祭神は、大物主大神(おおものぬしのおおかみ)で、大国主神(おおくにぬしのかみ)の名前で知られる、国土開発の神様です。少彦名神(すくなひこなのかみ)と協力して、農業、工業、商業などすべての産業開発から、治病、方除(ほうよけ)、造酒、製薬、交通、縁結びなど人間生活に必要なあらゆる事柄を整えられた神様です。
大物主大神が自らの「幸魂(さきみたま)・奇魂(くしみたま)」を三輪山に鎮められたので、三輪山全体を神体山として祀ってきました。「幸魂」は人に幸福を与える神霊、「奇魂」は不思議な力を持つ神霊です。本殿を持たず、拝殿とその奥にある三ツ鳥居を通して三輪山を拝むという原初の神祀りの形を伝えています。
『古事記』(中巻)に記された説話
第10代崇神天皇(すじんてんのう)の御代に疫病が起こり、人民が尽きようとしていました。天皇は大変悲しみお嘆きになって、神殿にお座りになっていた夜、大物主大神が夢に現れて、「“おおたたねこ”に私を祭らせれば神のたたりは起こらず、国も平安になるだろう」とお告げがありました。
そこで、“おおたたねこ”を探させて、天皇のもとへ送らせました。天皇が「お前は誰の子か」とお尋ねになると、「大物主大神が活玉依姫(いくたまよりひめ)と結ばれて生まれた子の子孫です」と答えました。
そこで“おおたたねこ”を神主に任じ、三輪山で大物主大神の祭祀をなさいました。また“いかがしこをのみこと”に神事用の土器をたくさん作らせて、天地の神々に奉納し、あらゆる神々に幣帛(みてぐら)を奉りました。すると疫病は収まり、国は平安になりました。
『古事記』にはこのような説話が記されています。この“おおたたねこ”を祀る「大直禰子神社(おおたたねこじんじゃ)」が二の鳥居の手前の道を左に進んだところにあります。この子孫が歴代大神神社の宮司を務めているということです。
大神神社の見どころ・御朱印
二の鳥居
二の鳥居をくぐると、神聖な空気が流れています。
本来の参道の始まりである一の鳥居と、昭和天皇在位60年を奉祝して建立された日本一の大鳥居(高さ32.3m、柱間23m)はJR線の反対側にあります。駐車場の関係で、車で参拝する方は二の鳥居から入ります。
祓戸神社(はらえどじんじゃ)
参道をしばらく行くと、左側にあります。体と心を祓い清めてくださる祓戸の神様が祀られています。神社に参拝の時はまずここにお参りします。
夫婦岩(めおといわ)
祓戸神社の隣にあります。二つの岩が仲良く寄り添っている形から夫婦岩と呼ばれています。
『古事記』(中巻)大物主大神と活玉依姫の恋物語
『古事記』に、御祭神の大物主大神と活玉依姫の恋物語が記されています。
美しい活玉依姫の元に、夜になると訪れる立派な男性がありました。お互いに恋におち、まもなく姫は身ごもりました。父母は怪しんで問いただし、その男性のことを知りたいと思い、姫に「赤土を床の前にまき、麻糸を針に通し、その人の衣の裾に刺しなさい」と教えました。姫は言われた通りにし、翌朝見ると、針をつけた麻糸は戸のかぎ穴から出ていました。
糸を頼りに訪ねていくとみわ山の神の社に留まりました。そこで、お腹の子は神の子と知るのです。この子孫が“おおたたねこ”です。麻糸が三勾(みわ、三巻き)残っていたのでその地をみわと名付けました。このように地名伝説も織り込まれています。
この大物主大神と人間の女性との恋物語を伝えるのが夫婦岩です。縁結び、恋愛成就、夫婦円満のご利益がある人気のパワースポットです。若い女性の行列ができていました。
手水舎
ここで手と口をすすぎ、心と体を清めます。
注連縄(しめなわ)の鳥居
拝殿に向かう石段を上がると、大きな注連縄が張られた鳥居がありました。気持ちが引き締まります。境内には数か所あります。
拝殿(重要文化財)
1664(寛文4)年、第4代将軍徳川家綱公により再建されました。西向きに建てられ、正面に唐破風造(からはふづくり)の大向拝がついています。三輪山(高さ467m)がご神体であるため、本殿はなく、拝殿を通して三輪山を拝みます。生活全般の守護神で、一番のパワースポットです。
三ツ鳥居(重要文化財)
拝殿の奥に建てられています。明神型の鳥居三つを一つに組み合わせた形で、三輪鳥居とも呼ばれ、「古来、一社の神秘なり」と、特に神聖視されています。拝殿からは見えませんので、拝観するには参集殿で申し込みが必要です。
大神神社の御朱印
拝殿前の授与所でいただけます。初穂料は300円。
巳の神杉(みのかみすぎ)
大物主大神の化身の白蛇が棲むと伝えられるご神木です。蛇の好物である卵がいつも供えられています。お酒のお供えは三輪神社が造酒発祥の地(後述)だからでしょう。
神宝神社(かんだからじんじゃ)
巳の神杉の右手の石段を下りて、左手奥にあります。熊野三山の神々が祀られています。お宝・財物を守護してくださる神様です。
天皇社(てんのうしゃ)
神宝神社の右手にあります。崇神天皇が祀られています。崇神天皇は大物主大神を篤く信仰され、丁重に祀られました。三輪山の麓に都を置かれ、日本の国の姿を整えられたと伝えられています。
活日神社(いくひじんじゃ)
拝殿の左手、狭井神社(さいじんじゃ)への参道途中にあります。崇神天皇に召され、三輪の神様にお供えするお酒を造った高橋活日命(たかはしいくひのみこと)が祀られています。杜氏(とうじ)の祖先神として酒造関係者から信仰されています。お酒が好きな方は心を込めてお参りしてください。
『日本書紀』(巻第5)三輪の神酒(みき)の説話
三輪の神酒に関して『日本書紀』にこんな説話が記されています。
崇神天皇8年の夏、前年に疫病が収まって、高橋活日を、大神神社の掌酒(さかひと)としました。その冬の12月、天皇は大田々根子(おおたたねこ)に大神を祭らせました。この日、活日は自ら神酒を天皇に献上し、次のような歌を詠みました。
「この神酒(みき)は 我が神酒ならず 倭(やまと)成す 大物主の 醸(か)みし神酒 幾久(いくひさ) 幾久」
(この神酒は私が造った酒ではありません。やまとの大物主の神が造られた神酒です。いつまでも いつまでも)
神酒をささげて、天皇も廷臣たちもいい気分になり、歌を詠んで宴が盛り上がりました。こうして三輪はお酒の発祥地として知られるようになり、「味酒(うまさけ)」が「三輪」の枕詞(まくらことば)になりました。(『万葉集』の歌後述)
市杵島姫神社(いちきしまひめじんじゃ)
狭井神社の鳥居をくぐって左手にあります。水の守護神、安芸の宮島のご祭神として知られる市杵島姫命が祀られています。また、弁財天とも称され、福徳財宝・芸能をつかさどる神様として人気があります。
狭井神社(さいじんじゃ)の見どころ・御朱印
狭井神社は、大神神社の摂社で、約2000年前の第11代垂仁天皇(すいにんてんのう)の御代に創祀されました。主祭神は、大神荒魂神(おおみわのあらみたまのかみ)です。
社殿
檜皮葺入母屋造(ひわだぶきいりもやづくり)の拝殿と、その奥に春日造本殿が鎮座しています。本社の大神神社は「幸魂・奇魂」が祀られているのに対して、こちらは「荒魂(あらみたま)」が祀られています。荒魂とは、進取的で活動的なはたらきをする神霊で、その力強いご神威から病気平癒の神様として信仰されています。
狭井神社の御朱印
社務所でいただけます。初穂料は300円です。
薬井戸(くすりいど)
社殿の左手奥にあります。万病に効くという霊水が湧き出ており、多くの方が「ご神水」を汲みに訪れます。殺菌室に用意されているコップでその場でも飲めます。
私もペットボトルに入れて、その日はご神水をいただきました。パワースポットです。お見逃しのないように。
ご神水の音
社殿の左に、湧き出るご神水の音が聞ける水琴窟がありました。清らかな音色で癒されます。
三輪山登拝口
ご神体の三輪山に登拝することができます。狭井神社の社務所で申込書に記入し、登拝料300円を納め、「三輪山参拝証」のたすきをかけ、自分でお祓いをして登拝します。
お参りが主眼ですので、水分補給以外の飲食、火気の使用、カメラ等の撮影が禁じられています。受付は午前9時~午後2時まで。下山報告は午後4時まで。この約束事は絶対に守らなくてはなりません。
登拝された方の感想に、途中にもたくさんの磐座(いわくら)があり、山頂の巨岩群を見ていると、「神々が坐して遊ぶ庭のようでした」とありました。しかし、勾配がきつい箇所もありますので、装備や体調管理が大切です。
鎮花祭(はなしずめのまつり)
4月18日に行われる「鎮花祭」は、大神神社と狭井神社の二社で行われます。崇神天皇の御代に疫病が起こり、大物主大神が鎮められたいわれから、疫病除けの祭典として二千年来の歴史があります。『大宝律令(たいほうりつりょう)』(701年)に「国家の祭祀として定められた祭り」と記載されていました。
春の花の散るころ、人間の気のゆるむ時に、疫病が起こりやすいのを鎮めるために、薬草の忍冬(すいかずら)と百合根を他の神饌(しんせん)とともに、大神神社と狭井神社にお供えします。
祭典には奈良・京都・大阪などの製薬業者や医療関係者が多く参列し、医薬品が奉献されるため、「薬まつり」とも呼ばれています。
お供えされた忍冬入りの「忍冬飴」が500円で授与されていました。私たちは運よく最後の三袋を授与していただくことができました。ほのかに薬草の香りがするさっぱりした飴でした。これで今年は元気に過ごせそうです。
『万葉集』(巻第1)に歌われた三輪山
『万葉集』には、三輪山、三輪、三室(みむろ)の山、三諸(みもろ)などと詠まれた歌が20首余りあります。その中で最も知られている歌を紹介しましょう。
題詞に「額田の王(ぬかたのおおきみ)の近江の国に下りし時作れる歌」として、長歌と反歌(長歌をまとめたもの)があります。
「味酒(うまさけ) 三輪の山 あをによし 奈良の山の 山の際(ま)に い隠るまで 道の隈 い積るまでに つばらにも 見つつ行かむを しばしばも 見放けむ山を こころなく 雲の 隠さふべしや」
【長歌の意味】
慣れ親しんだ三輪山を、奈良の山々のはてに隠れるまで、道の曲がりが何重にも重なるまで、十分に見ながら行きたいのに、何度も眺めやりたいのに、無情にも雲が隠すなんてことがあってよいものだろうか。
「三輪山をしかも隠すか雲だにもこころあらなも隠さふべしや」
【反歌の意味】
三輪山をそんなふうに隠すのか。せめて雲だけでも情けがあってほしい。隠すなんてことがあってよいものだろうか。
というように、慣れ親しんだ飛鳥の地から去りがたい思いを詠んだ長歌と反歌です。
額田の王は、『日本書紀』(巻第29)によりますと、鏡の王(おおきみ)の娘で、大海人皇子(おおあまのおうじ・後の天武天皇)に嫁し、十市皇女(とおちのひめみこ)を生んだとあります。それ以外の詳しいことはわかりません。
しかし、『万葉集』の題詞などから、後に大海人皇子の兄の天智天皇に召され、近江の大津に遷都された時に仕えたとされています。絶世の美女で、和歌に優れ、二人の皇子に愛された額田の王は、多くの小説や漫画、舞台演劇に描かれています。
この歌は天智天皇の御製と後書きにあります。このことから額田の王は、天皇に代わって歌を詠んだり、宮中の宴で活躍したりする巫女(みこ)のような女性であったのではないかと言われています。
謡曲「三輪」の舞台にもなった大神神社
世阿弥(ぜあみ)作と伝えられる謡曲「三輪」は、神婚説話を元にして、平安時代の高僧玄賓僧都(げんぴんそうず)と、女神として登場する三輪明神との交感を描いたものです。玄賓が、里の女(三輪明神の化身)に請われるままに与えた衣が掛かっていたという「衣掛の杉」(ころもがけのすぎ)の切り株が、檜皮葺の屋根に覆われて保存されています。
拝殿に向かう大きなしめ縄の鳥居が張られた石段の下です。
アクセス
大神神社 〒633-8538 奈良県桜井市三輪1422
☎ 0744-42-6633 FAX 0744-42-0381
JR桜井線「三輪駅」下車徒歩5分
JR桜井線・近鉄大阪線「桜井駅」下車。北口2番乗り場からシャトルバスで約20分
まとめ
大神神社はいかがでしたでしょうか。さまざまな書物に記されていることからも由緒ある古社であることがわかります。
現在も酒造の祖先神、医薬の神様としてそれぞれの関係者から崇敬を受けています。そして、もう一つ忘れてはならないのは、三輪地方はそうめんの発祥の地でもあることです。
「三輪そうめん」の歴史は古く、約1200年前、“おおたたねこ”の子孫で、第12代宮司の次男穀主(たねぬし)が、飢饉と疫病に苦しむ民の救済を祈願しました。そして、大神のお告げにより、三輪の地で小麦を作り、石臼で挽き、湧き水で粉をこねて糸状に延ばし「索餅(さくべい)」を作り、民を救いました。それがそうめんの起源と伝えられています。
大神神社はそうめん作りの守護神とされ、毎年2月5日に、その年の生産者と卸業者の初取引の参考価格を神前で占う「卜定祭(ぼくじょうさい)」が行われています。
いろいろな守護神としてパワーあふれる大神神社(三輪明神)に是非訪れてみてください。


前回の当麻寺の記事といい、今回の大神神社の記事は色々奥深い記事ですね、凡人の私にはなかなか頭に入りませんが、エピソード楽しく拝読させていただきました。
ご訪問ありがとうございます。「令和」になって『万葉集』ブームが起こっています。偶然でしたが、4月下旬に奈良の寺社へお参りする機会がありました。当麻寺も大神神社も『万葉集』に歌われていましたので、記事の中で紹介しました。ゆかりの地に立って、約1350~1360年前の万葉人の心に少し触れることができたような気がします。