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大国主は縁結びの神様!因幡の白うさぎ・国譲りの物語

大国主,国譲り
大国主神(オオクニヌシノカミ)といえば、出雲大社に祀られている縁結びの神様として絶大な人気があります。因幡(いなば)の白うさぎを助けた話はだれしも子どものころに聞いたことがあるでしょう。

ではなぜ出雲大社に祀られることになったのでしょうか。大国主にまつわる神話や伝説は各地に伝えられ、その別名も10を超えます。諸本によってさまざまですので、奈良時代の初め712年に編さんされた『古事記』を中心に大国主神についてご紹介しましょう。

大国主神(オオクニヌシノカミ)・大国主命(オオクニヌシノミコト)とは

大国主は、須佐之男命(スサノオノミコト)の6世の孫(息子という説もあります)で、大穴牟遅神(オオナムチノカミ)、葦原色許男神(アシハラシコオノカミ)などいくつもの別名があります。

多くの兄弟たちの迫害に打ち勝ち、少名毘古那神(スクナビコナノカミ)の協力を得て、国土を開拓し、農業や畜産を興し、医療や禁厭(きんえん、災いをはらうまじない)などの方法を定め、地上の国、葦原中津国(あしはらのなかつくに)を完成させました。様々な女神との間に180柱もの子をもうけ、天上の神に国を譲り、出雲(現島根県)の宮殿に鎮座しました。

大国主神と因幡の白うさぎの物語

大国主神は、スサノオに認められるまでは、「オオナムチ」で説明します。オオナムチの多くの兄弟たちは「八十神(やそがみ)」としてまとめて扱います。

八十神は因幡の国(現鳥取県)の美しいヤガミヒメに求婚するために出かけます。その時オオナムチに八十神の荷物を入れた大きな袋を背負わせ、従者としてつれていきました。

八十神に遅れてオオナムチが気多(けた)の岬に着いた時、丸裸のうさぎが泣いていました。うさぎは隠岐の島から気多に渡りたくて、鮫に仲間の数のくらべっこをしようとあざむき、鮫を島から気多の岬まで横一列に並ばせて、その上をぴょんぴょん踏みながら数えていきました。

大国主,国譲り
いよいよ気多の地に下りる時に、「おまえたちは私にだまされたのだよ。」とついうれしくて言ってしまい、一番端にいた鮫に皮をはがされてしまいました。そこへ、通りかかった八十神に「海水を浴びて、山の頂で横になって風に当たれ。」と教えられ、その通りにすると、皮膚にひびが入ってとても痛くて泣いていたのでした。

そこでオオナムチは「河口に行って、真水で体を洗い、蒲(がま)の花粉の上に転がっていれば治るだろう。」と教えました。うさぎが教えられた通りにすると果たして皮膚は元のようになりました。うさぎは「八十神はヤガミヒメと結婚できないでしょう。袋を背負って従者の仕事をしているけれど、あなたがヤガミヒメと結婚するでしょう。」と予言しました。

実はこの話は、オオナムチが医療の神様とも言われる由縁を物語っているのです。

オオナムチ(大国主神)八十神に二度殺される

うさぎの予言通りヤガミヒメがオオナムチを選んだことを怨んで、八十神はオオナムチを殺します。一度目は焼いた大石でやけどをさせ、二度目は山に連れていき、クサビのような氷目矢(ひめや)を放って殺しました。この時は母神が天上の神に助けを求めて生き返らせました。

母神は、ここにいると八十神に殺されるからと、オオナムチを紀伊の国(現和歌山県)のオオヤビコノカミのもとに行かせました。ところがそこへも八十神が追いかけてきましたので、オオヤビコノカミは、「スサノオノミコトがいる根の堅州国(かたすくに)に行きなさい。」と、オオナムチを木の俣からこっそり逃がしました。

オオナムチ(大国主神)スサノオの娘スセリヒメと結婚

オオナムチが根の堅州(黄泉〈よみ〉の国)のスサノオを訪ねたところ、娘のスセリヒメが出てきました。二人はお互いに一目ぼれして結婚します。すると、スサノオはオオナムチにさまざまな試練を与えます。蛇やむかで、蜂がいる部屋に寝かせたり、野原に放った矢を取りに行かせて野原に火をつけて焼き殺そうとしたりしますが、スセリヒメやねずみによって助けられます。

オオナムチは、スサノオが寝ている間に、髪を屋根の垂木(たるき)に結いつけてすぐには動けないようにして、巨岩で部屋の入り口をふさぎます。そしてスセリヒメを背負い、スサノオの宝物である生太刀(いくたち)と生弓矢(いくゆみや)と天の詔琴(あめののりごと)を取って逃げ出しました。

オオナムチが黄泉の国とこの世の境の黄泉比良坂(よもつひらさか)に着いた時、スサノオは「その太刀と弓矢で八十神を追い払って、大国主神(オオクニヌシノカミ)を名乗り、スセリヒメを正妻として、出雲の宇迦(うか)の山のふもとに、太い宫柱を深く掘り立てて、空高く千木(ちぎ)をそびやかした宫殿に住め。」と言いました。こうしてオオナムチはスサノオに認められたのです。これは八十神つまり諸豪族を征伐してオオナムチが出雲の支配者になったことを意味します。

さあ、ここからは大国主神と記します。

大国主は因幡のヤガミヒメと結婚して連れてきましたが、ヤガミヒメは正妻のスセリヒメをおそれて、子供を木の俣に刺し挟んで国に帰りました。大国主は、その他にもさまざまな女神と結婚して、180柱の子を生みました。

大国主神の国作り

大国主が出雲の美保の岬にいた時、波の彼方からガガイモの船に乗って小さな神がやってきました。それは天上の神の、カミムスヒノカミの指のすき間から漏れこぼれて生まれたスクナビコナノカミでした。大国主と兄弟になって国作りをするために遣わされたと言います。スクナビコナは何事にも通じていて国を固めていきました。しかしスクナビコナは途中で海の彼方にある常世(とこよ)の国に渡っていきました。

大国主は「私は一人になりどうやってこの国を作ればいいのだろうか。」と悩みました。この時、海を照らしながらやってきた神が「私を大和の国(現奈良県)の東の山上に祀ったなら、一緒に国作りを完成させよう。」と言いました。そこで大和の三輪山に大物主大神(オオモノヌシノオオカミ)として祀りました。これが大神神社(おおみわじんじゃ)です。

大国主命 国造り

オオモノヌシは、大国主自身の幸魂(さきみたま、幸福を与える魂)と奇魂(くしみたま、不思議な力を持つ魂)です。つまり大国主は自らの魂を祀って地上の国、葦原中国(あしはらのなかつくに)を完成したのです。

大国主の国譲り

葦原中国が完成すると、天上の神天照大御神(アマテラスオオミカミ)は「葦原中国は、我が子が治めるべき国であるぞ。」と、息子のアメノオシホミミに地上に降りるように命じました。ところがオシホミミは天の浮橋に立って、「葦原中国はたいそう騒がしいようだ。」と天に戻ってきました。そこで天上の神々が相談し、暴威を振るう地上の神々の平定にアメノホヒノカミやアメノワカヒコを遣わしましたが、二神とも復命しませんでした。

そこで雷神であり、刀剣の神でもあるタケミカヅチノオノカミとアメノトリフネノカミを遣わしました。この二神は出雲の伊那佐の小浜に降りて、十掬剣(とつかつるぎ)を逆さに刺し立てて、その剣先にあぐらをかいて座り、大国主に問いました。

「アマテラスオオミカミは、そなたが領有している葦原中国はアマテラスの子が治める国だと申されている。そなたの考えはどうだ。」と。大国主は息子のヤエコトシロヌシノカミに返答させましたが、いかにも強そうなタケミカヅチを見て恐ろしくなったのかヤエコトシロヌシは「この国はアマテラスオオミカミの子に差し上げましょう。」と言うと、船を青い柴垣に変えてその中に隠れてしまいました。

次に、大国主は息子のタケミナカタノカミに返答させようとしたところ、力自慢のタケミナカタは巨岩を手の先で持ち上げながらやってきて、「誰だ。我が国に来てこそこそと物を言っているのは。では、力競べをしよう。私が先におまえの手をつかもう。」と言って、タケミカヅチの手を取りました。すると、その手はたちまち氷柱となり、剣の刃になりました。タケミナカタは恐れて引き下がりました。

今度はタケミカヅチがタケミナカタの手を取り、葦の若葉をつかむように握りつぶして放り投げたので、タケミナカタは逃げ去りました。タケミカヅチが追いかけて信濃の国(現長野県)の諏訪湖に着き、タケミナカタを殺そうとすると、タケミナカタは「どうか私を殺さないでください。私はこの地のほかにはどこへも行きません。父やヤエコトシロノカミの申すように、この葦原中国はアマテラスの神の御子に献上します。」と言って服従を示しました。建御名方神(タケミナカタノカミ)が諏訪大社に祀られるようになったのはこのような由縁です。

そこで、タケミカヅチは出雲に戻ってきて、大国主に問いただしました。「そなたの御子たちはアマテラスオオミカミの御子に献上すると申した。そなたの考えはどうか。」と。そこで、大国主は「我が子どもたちの申すことに違いはありません。私のすみかとして天上の神の御子が皇位をお継ぎになる立派な宮殿と同じように、地底の大きな岩に宮柱を太く立て、大空に千木(ちぎ)を高々とそびえさせた神殿をお造り下さい。そうすれば、私は遠い幽界(ゆうかい、死後の世界)に隠退しましょう。また、我が子どもの180神は、ヤエコトシロノカミが統率すれば背くことはありません。」と答えました。そこで出雲の国の多芸志(たぎし)の小浜に神々によって宮殿が作られ、大国主神は鎮まりました。これが出雲大社に大国主神が祀られるようになった由縁です。

そこでタケミカヅチは天に還って、葦原中国を平定したと報告しました。これが大国主の国譲りです。

ところが、アマテラスの子のオシホミミは「私が下界に降りる準備をしている間に子が生まれた。ヒコホノニニギノミコトである。この子を下界に降ろそう。」と言いました。こうして、地上の葦原中国はアマテラスの孫のニニギノミコトが九州の高千穂に降りて治めることになりました。これが天孫降臨(てんそんこうりん)です。さらにその曽孫が第1代神武天皇になります。『古事記』にはこのように記されています。

大国主神のご利益

国作りをされた神様ですので縁結びはむろんのこと、子授け、夫婦和合、五穀豊穣、商売繁盛、産業開発、開運厄除け、医療など生活に必要なあらゆる事柄を守護し、幸福をもたらしてくれる神様として崇敬されています。

室町時代以降、大国主の「大国」が「ダイコク」とも読めるため、仏教の「大黒天」と習合して同一視されるようになり、さらに七福神の一柱になりました。江戸時代に七福神めぐりが流行すると、財福の神として各地の寺社に祀られるようになりました。

もともと大黒天はヒンドュー教のシヴァ神で、青黒い身体に怒りの形相をしていましたが、仏教に取り入れられ守護神となりました。福袋を肩にかけて打ち出の小槌をもち、俵の上に乗り、ねずみを従えたにこやかな表情の「大黒さん」は、因幡の白うさぎの説話や、大国主が八十神たちに殺されそうになった時に、ねずみの「穴にもぐれ」という助言で命拾いした説話などが合わさって出来上がった姿なのです。

大国主神を祀る有名な神社

大国主を祀る神社は全国各地にありますが、その中でも有名な神社を三つご紹介しましょう。

出雲大社(いずもおおやしろ・いずもたいしゃ) 島根県

大国主,国譲り
大国主神がアマテラスオオミカミに国を譲る条件として建てられた壮大な宮殿が出雲大社だと伝えられています。縁結びの神様として崇敬されていますが、男女の縁だけでなく、すべてのものが豊かに栄えていくための結びつき、目に見えないご縁を結んでくださいます。

出雲地方では10月の別名を「神在月(かみありづき)」と言います。これは旧暦の10月に全国の神々が出雲に集まり、人と人との縁結びやお金や仕事など世の中のあらゆるご縁を決める会議をするという伝説によるものです。そのため出雲以外では神が居ない月ということで「神無月(かんなづき)」と言います。

2021年は11月14~21日に出雲大社で神在祭(かみありまつり)が行われます。例年多くの参拝者が訪れます。

【〒699-0701 島根県出雲市大社町杵筑東195 ☎0853-53-3100】

大神神社(おおみわじんじゃ) 奈良県

大国主命 国造り
大国主神が奈良の三輪山に、自らの幸魂(さきみたま)・奇魂(くしみたま)を大物主大神(オオモノヌシノオオカミ)として祀った神社です。本殿を持たず、三輪山をご神体として、拝殿とその奥にある三ツ鳥居を通して拝む原初の神祀りの形を伝えています。医薬・酒造・方除けなど人間生活全般の守護神として崇敬されています。

【〒633-8538 奈良県桜井市三輪1422 ☎0744-42-6633】

詳しくは下記をご覧ください。
大神神社は日本最古の神社!『万葉集』の歌や御朱印と見どころを紹介

大国魂神社(おおくにたまじんじゃ) 東京都

大国主,国譲り
主祭神の大国魂大神(オオクニタマノオオカミ)は大国主神と同じ神様です。創建は第12代景行天皇の41(111)年、この地に大国魂大神が降臨し、郷民が祀ったのが始まりとされます。

武蔵国の総社で、一之宮から六之宮まで合わせ祀るので六所宮とも呼ばれています。現在の本殿は徳川第4代将軍家綱の命令により建てられたものです。縁結び・招福・厄除けのご利益をいただけます。4月30日~5月6日に行われる勇壮な「くらやみ祭」が有名です。

【〒183-0023 東京都府中市宮前3-1 ☎042-362-2130】

まとめ

いかがでしたでしょうか。

7世紀後半、諸氏に伝わる天皇の系譜の記録(帝紀)や、神話・伝説の記録(本辞)の誤りを正そうとして、『古事記』の編さん事業を始めた天武天皇は、天皇を頂点とする中央集権国家を形成しようとしていました。

『古事記』の序文によりますと、天武天皇の死後編さん事業は途絶えていましたが、元明天皇が再び命令を出して、稗田阿礼(ひえだのあれ)が誦習していた帝紀と本辞を太安万侶(おおのやすまろ)が文章に書き、和同5(712)年正月に完成したとあります。

天照大御神を中心とする天上の国高天原(たかまがはら)を大和朝廷だと仮定すると、大国主神にまつわる神話は、地方の豪族の中でも最も大きな勢力をもっていた出雲一族が大和政権に服従したことを、「国譲り」という形で示そうとしたのではないかと考えられます。大国主を出雲へ向かわせるために因幡の白うさぎの説話を挿入し、天上国家が地上へ移行したことを「国譲り」で物語ったといえましょう。

皆さんもさらに神話の世界に足を踏み入れて、古代の人々のおおらかで奇抜な想像力・創作力を味わってみてはいかがでしょうか。

ABOUT ME
Written by ゆうこ
卯年、山羊座。元国語教師。趣味は、温泉旅行や食べること。百人一首競技かるたは選手&読手A級。お寺や神社に立つと、幾度もの興亡が繰り返され、再建・再生され、長年月維持し、受け継いできた無数の無名の人々がいたことを思わずにいられません。そういう人々の思いを少しでも伝えられたらと思っています。 共著書:『新渡戸稲造の至言』(新渡戸基金発行)『花ひらく女学校』(女子教育史散策 明治後期編)

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